今日のお題:吉田松陰における「忠誠」の転回――幕末維新期における「家国」秩序の超克(『日本思想史研究』23号・2001年3月)
本稿は幕末維新期の「志士」たちの「忠誠」(*)の問題について、吉田松陰という注目すべき思想家を取り上げて論じたものである。
(*)そもそも「忠誠」が現在のようにloyaltyの意味で用いられるようになったのはそう古いことではない。近代以前には「忠誠」ということばはあまり用いられず、また用いられた場合でもloyaltyではなくむしろhonestyの意味で用いられることが普通であった。(なお、井上哲次郎『哲学字彙』(1881年)でも、honestyの訳語として「忠誠」が用いられている。)したがって、ここで「忠誠」の語を近代的な意味で用いるのは、これを主観的な意識としての「忠」と弁別し、客観的な分析概念として用いているのである。
藩主から天皇への「忠誠」の移行、あるいは封建的分邦としての藩国家から近代的統一態としての日本国家への「忠誠」の移行の軌跡が、単純に近代的思考によって導かれるのかという疑問から本稿は出発した。当時の志士たちは、その多くが封建制内部にその出自を有しており、その意味で天皇や日本国家への移行といった封建制の自己否定の過程は、単なる主君の交代や所属対象の空間的拡大によってなされるものではないからである。
松陰自身も、その晩年に「亡邸・入海以来、近日勤王の諸策に至るまで、過激なりと雖も、過憤なりと雖も、吾れの心赤、一毫も吾が公〔藩主〕に負かず。」(「知己難言」1859(安政6)年5月2日)と語っていたように、主観的には藩主への「忠」を最後まで堅持し続けていたのであり、天皇という新しい「忠誠」対象へ全的に移行しすることで既存秩序を超克したのではない。むしろ松陰は、重臣や有司によって構成される既存の「家国」秩序を、藩主の絶対化を強烈に主張することで超克し、新しい秩序を構築しようとしたのである。その意味で松陰の「忠」は、「藩主親政・君臣一体」という封建倫理の正統的立場から形成されていたのである。
本稿では松陰の「忠誠」の転回を、初期(亡命まで)・中期(投獄まで)・後期(刑死まで)の各時期に分け、さらに松陰刑死後にその「忠誠」が彼れの弟子たちによってどのように受容・変容されていったかを論じた。
初期松陰は、自らを長州藩(「御家」)の山鹿流兵学師範(「家」)である吉田寅次郎として自らをアイデンティファイしており、その「忠誠」はこの主君の「御家」と家臣の「家」によって歴史的連続性の内に形作られる観念的な「家国」において展開されていた。しかし1851(嘉永4)年末に敢行した亡命(脱藩)の結果、御家人召放(浪人にされること)という処分を下された松陰は、自らが「忠誠」の対象と規定していた「家国」秩序から逸脱することとなり、新たな「忠誠」対象を模索することとなる。
この模索の時期が中期である。浪人の身として諸国遊学中にペリー艦隊の来航という事件に遭遇した松陰は、もはや藩士ではないにも関わらず、「将及私言」(1853(嘉永6)年)を始めとして数本の上書を提出した。本稿ではこれらの上書のうち「将及私言」を取り上げて、松陰が「主君」に対する「忠」を尽すことで、自らをアイデンティファイさせようとした傾向を指摘し、この時期の松陰の「忠誠」対象がかつての「家国」から「主君」へとシフトしつつあったことを明らかにした。
松陰のこの「忠誠」の在り方は、実際には重臣や有司の合議によって運営され、藩主は時に押し込められる可能性もあった近世藩国家の「国制」(笠谷和比古氏)を考えた場合、極めて特殊でありながら、かつ封建制倫理の根本的な部分に基づいていると言える。この「忠誠」の在り方がいっそう深められたのが後期である。
1854(安政元)年におけるペリー艦隊密航失敗により逮捕・投獄された幽囚生活の時代が後期にあたり、この時期に松陰における藩主の絶対化の傾向はもっとも強くなった。
獄中にあっても松陰は天下国家を語ることをやめようとはしなかった。幽囚の松陰が天下国家を語る背景には、「已に義を忠孝に失へども、尚ほ食を家国に仰ぐ。是れ君父の余恩に非ずや。」(「三余説」1855(安政2)年)というような、過剰な報恩の意識があり、この「恩」こそすでに「家国」秩序から排除された「世の棄物」としての松陰が、新しい「忠誠」対象を求めた結果再発見されたものにほかならない。そしてこれ以降、「君恩」(世禄ではなくこの防長二国に生れたことそれ自体を指している)に報いる存在として、松陰は自らをアイデンティファイさせるに至ったのである。
このような「君恩」に対する絶対的な「忠」の意識に基づく自己の定位という「忠誠」のありかたは、松陰刑死後の長州藩尊攘派にも共有されたものであった。長州藩内の「藩主の上意の下における、「有司」グループの排他的結束の形成」(井上勝生氏)は、まさしく松陰の主張する藩主の絶対化に基づいており、この「『有司』グループ」は長州藩内の尊攘派を基盤として、既存の秩序としての「家国」の保全を藩主の命に優越させるような「俗論派」に対抗することで形成されていったものであった。
藩主への絶対的な「忠」によって自己を自己たらしめようとする松陰の「忠誠」の在り方は、本来「家国」秩序の内に位置づけられていた藩主をそこから切り離す点で、客観的に見れば、確かに異常な「忠」の暴走であり、その秩序の内にあるものにとっては、「不義不忠」と見做されてしかるべきものであった。しかし、自己否定ともいうべき近世封建制それ自体の否定は、単純に「一君万民」の天皇の存在によってのみ担保されるものではなく、思想的にはむしろ封建制倫理の文脈の内において、「家国」から藩主と藩政府とを分離し、前者への絶対的な「忠」を媒介として後者を否定するという過程を経ることで初めてなされ得たのであり、松陰の描いた「忠誠」の転回の軌跡はまさにそのことを示していると結論するものである。
(*)そもそも「忠誠」が現在のようにloyaltyの意味で用いられるようになったのはそう古いことではない。近代以前には「忠誠」ということばはあまり用いられず、また用いられた場合でもloyaltyではなくむしろhonestyの意味で用いられることが普通であった。(なお、井上哲次郎『哲学字彙』(1881年)でも、honestyの訳語として「忠誠」が用いられている。)したがって、ここで「忠誠」の語を近代的な意味で用いるのは、これを主観的な意識としての「忠」と弁別し、客観的な分析概念として用いているのである。
藩主から天皇への「忠誠」の移行、あるいは封建的分邦としての藩国家から近代的統一態としての日本国家への「忠誠」の移行の軌跡が、単純に近代的思考によって導かれるのかという疑問から本稿は出発した。当時の志士たちは、その多くが封建制内部にその出自を有しており、その意味で天皇や日本国家への移行といった封建制の自己否定の過程は、単なる主君の交代や所属対象の空間的拡大によってなされるものではないからである。
松陰自身も、その晩年に「亡邸・入海以来、近日勤王の諸策に至るまで、過激なりと雖も、過憤なりと雖も、吾れの心赤、一毫も吾が公〔藩主〕に負かず。」(「知己難言」1859(安政6)年5月2日)と語っていたように、主観的には藩主への「忠」を最後まで堅持し続けていたのであり、天皇という新しい「忠誠」対象へ全的に移行しすることで既存秩序を超克したのではない。むしろ松陰は、重臣や有司によって構成される既存の「家国」秩序を、藩主の絶対化を強烈に主張することで超克し、新しい秩序を構築しようとしたのである。その意味で松陰の「忠」は、「藩主親政・君臣一体」という封建倫理の正統的立場から形成されていたのである。
本稿では松陰の「忠誠」の転回を、初期(亡命まで)・中期(投獄まで)・後期(刑死まで)の各時期に分け、さらに松陰刑死後にその「忠誠」が彼れの弟子たちによってどのように受容・変容されていったかを論じた。
初期松陰は、自らを長州藩(「御家」)の山鹿流兵学師範(「家」)である吉田寅次郎として自らをアイデンティファイしており、その「忠誠」はこの主君の「御家」と家臣の「家」によって歴史的連続性の内に形作られる観念的な「家国」において展開されていた。しかし1851(嘉永4)年末に敢行した亡命(脱藩)の結果、御家人召放(浪人にされること)という処分を下された松陰は、自らが「忠誠」の対象と規定していた「家国」秩序から逸脱することとなり、新たな「忠誠」対象を模索することとなる。
この模索の時期が中期である。浪人の身として諸国遊学中にペリー艦隊の来航という事件に遭遇した松陰は、もはや藩士ではないにも関わらず、「将及私言」(1853(嘉永6)年)を始めとして数本の上書を提出した。本稿ではこれらの上書のうち「将及私言」を取り上げて、松陰が「主君」に対する「忠」を尽すことで、自らをアイデンティファイさせようとした傾向を指摘し、この時期の松陰の「忠誠」対象がかつての「家国」から「主君」へとシフトしつつあったことを明らかにした。
松陰のこの「忠誠」の在り方は、実際には重臣や有司の合議によって運営され、藩主は時に押し込められる可能性もあった近世藩国家の「国制」(笠谷和比古氏)を考えた場合、極めて特殊でありながら、かつ封建制倫理の根本的な部分に基づいていると言える。この「忠誠」の在り方がいっそう深められたのが後期である。
1854(安政元)年におけるペリー艦隊密航失敗により逮捕・投獄された幽囚生活の時代が後期にあたり、この時期に松陰における藩主の絶対化の傾向はもっとも強くなった。
獄中にあっても松陰は天下国家を語ることをやめようとはしなかった。幽囚の松陰が天下国家を語る背景には、「已に義を忠孝に失へども、尚ほ食を家国に仰ぐ。是れ君父の余恩に非ずや。」(「三余説」1855(安政2)年)というような、過剰な報恩の意識があり、この「恩」こそすでに「家国」秩序から排除された「世の棄物」としての松陰が、新しい「忠誠」対象を求めた結果再発見されたものにほかならない。そしてこれ以降、「君恩」(世禄ではなくこの防長二国に生れたことそれ自体を指している)に報いる存在として、松陰は自らをアイデンティファイさせるに至ったのである。
このような「君恩」に対する絶対的な「忠」の意識に基づく自己の定位という「忠誠」のありかたは、松陰刑死後の長州藩尊攘派にも共有されたものであった。長州藩内の「藩主の上意の下における、「有司」グループの排他的結束の形成」(井上勝生氏)は、まさしく松陰の主張する藩主の絶対化に基づいており、この「『有司』グループ」は長州藩内の尊攘派を基盤として、既存の秩序としての「家国」の保全を藩主の命に優越させるような「俗論派」に対抗することで形成されていったものであった。
藩主への絶対的な「忠」によって自己を自己たらしめようとする松陰の「忠誠」の在り方は、本来「家国」秩序の内に位置づけられていた藩主をそこから切り離す点で、客観的に見れば、確かに異常な「忠」の暴走であり、その秩序の内にあるものにとっては、「不義不忠」と見做されてしかるべきものであった。しかし、自己否定ともいうべき近世封建制それ自体の否定は、単純に「一君万民」の天皇の存在によってのみ担保されるものではなく、思想的にはむしろ封建制倫理の文脈の内において、「家国」から藩主と藩政府とを分離し、前者への絶対的な「忠」を媒介として後者を否定するという過程を経ることで初めてなされ得たのであり、松陰の描いた「忠誠」の転回の軌跡はまさにそのことを示していると結論するものである。