2004年01月01日 (木)

今日のお題:論争の書としての『講孟余話』――吉田松陰と山県太華、論争の一年有半(歴史科学協議会『歴史評論』645号2004年)

論争の書としての『講孟余話』――吉田松陰と山県太華、論争の一年有半(歴史科学協議会『歴史評論』645号2004年)

 世界市場の樹立が、環太平洋諸地域の植民地化と中国と日本の開国とによって完了するようにみえた19世紀中葉における象徴的事件の一つが、ペリー・プチャーチン両艦隊の日本来航であったことは誰しも認めるところであろう。この世界史的状況に臨み、「五大州を周遊せんと欲」し、1854(安政元)年に再来航したペリー艦隊への密航計画を企てたのが吉田松陰(1830(天保元)?1859(安政6)年)である。周知の通りこの企ては失敗に終わり、海外渡航の咎をもって罪せられた松陰は、永い幽囚生活に入った。

 長州藩野山獄に投ぜられた松陰は、荒廃した獄風の改善の一環として翌年4月12日より『孟子』講義を、さらに6月13日より同輪読会を催した。『講孟余話』(以下『余話』)は、その際の所感・批評をまとめたものである。

 松陰論において『余話』が重要視されるのは、それが松陰の主著であるのみならず、松陰の「国体論」を最もよく表現する著作であるからである。『余話』は「道」の普遍性に対する「国体」の固有性の優越を、次のように強く説く。

「羊棗と膾炙、姓と名、一は同じく、一は独りなり。同じきを食して独りを食せず。同じきを諱まずして独りを諱む。…道は天下公共の道にして所謂同なり。国体は一国の体にして所謂独なり。」(『講孟余話』「尽心下三六」1856(安政3)年6月10日)

 これは、亡父を偲び、その個人的嗜好であった羊棗を嗜まないことは、父の名(「独」)を諱み、姓(「同」)を諱まないことと同様であるという『孟子』の一節を、松陰一流の読み替えをもって敷衍したものである。この文にはさらに、道の絶対的な普遍性を説くものへの激烈な批判が続く。

「然るに一老先生の説の如く、道は天地の間一理にして、其の大原は天より出づ、我れと人との差なく、我が国と他の国との別なしと云ひて、皇国の君臣を漢土の君臣と同一に論ずるは、余が万々服せざる所なり。」(同前)

 これこそ、「その後明治・大正・昭和とつづいたさまざまな形の国体論争の中でも、もっとも生彩あり、情熱のこもったものとして私には敬重すべきものに見える」と橋川文三氏によって評された一文である。この論争の敵手である「一老先生」が、当時長州藩藩校の明倫館前学頭であった山県太華(1781(天明元)?1866(慶応2)年)であることは論を俟たない。

 それでは、松陰がここに引く「一老先生の説」とは、いったいどこに典拠を置いているのであろうか。

 それは、『余話』に対する評として著された太華の『講孟箚記評語』(上)の冒頭部にある、「道は天地の間一理にして、其の大原は天より出づ。我れと人との差なく、我が国と他の国の別なし」という一文に他ならない。しかしこのように考えたとき、『余話』に関する通説的理解との矛盾が現れてくる。

 通説では、『余話』に対する論駁書としての太華の『講孟箚記評語』(以下『評語』)は、『余話』完成後に著されたとされる。例えば、奈良本辰也氏は、『余話』を抄録した編著『吉田松陰集』(一九六九年)で、「太華が論駁した『講孟余話』の本文を各章毎に分けて掲げ、次に太華の文、そして松陰の更なる反評、という順序に」再構成することで、「論争の書」としての『余話』の理解に大きく寄与したが、この順序の立て方は明らかに、『余話』(松陰)―『評語』(太華)―「反評」(松陰)という直線的(リニアー)な順序を前提としている。それを裏付けるように氏は、この『余話』の解説文において、『余話』の成立事情と完成の叙述の後に、「彼はこれを藩の大儒山県太華にみて貰って批判を仰いだ。ところが太華は、これを散々にやっつけた」と続けているのである。

 だが、『余話』完成後に執筆されたとされる『評語』の文が『余話』に引かれ、かつ論駁されることは、奈良本氏をはじめとした通説的理解と明らかに矛盾する。この事実を整合的に理解するには、通説をひとたび抛棄し、『余話』完成以前に松陰が『評語』を読んだと考える必要がある。本稿はこの仮説を論証する作業を通じ、歴史上極めて著名な松陰―太華論争の実際の過程を再現するものである。

 本稿が『余話』の成立過程を考察するのは、単にそれが松陰の「主著」であるからではない。かつて藤田省三氏は、松陰を体系思想家ではなく「状況的」な存在としてとらえ、「講孟余話の思想構造の分析」といった作品論的方法での松陰論を拒否した。本稿もまた氏の見解を支持するものであって、『余話』を一箇の体系的著作としてではなく、論争により成立する過程として把握することで、つねに変化する「状況的」存在としての松陰の思想的展開の過程を明らかにすることを目指す。思想家は初めからみずからの思想を樹立した状態でこの世に生を稟けるのではない。思想は人間の歴史的・社会的営為の上に形成されるものであり、その意味で本稿は、「松陰の思想構造の分析」ではなく、「思想形成の分析」の試金石となるものなのである。

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