今日のお題:「魂を留める――吉田松陰の場合」(日本宗教学会2006年度大会「パネル:どう死ぬか――現場から考える「宗教」研究」、仙台・東北大学、2006年09月18日)
安政の大獄の渦中の一八五九(安政六)年五月(以下断りのない限り日付は同年を指す)、吉田松陰(一八三〇〈天保元〉?一八五九〈安政六〉)は江戸への召還命令を受けた。この報を伝え聞いた弟子の入江子遠は、「先生の死所を知ざるなり」(「入江杉蔵より」同月一四・五日頃)と書き送り、師に死すべきことを勧めたが、松陰は「至誠にして動かざる者は未だ之れ有らざるなり」の語をもって拒絶したことはよく知られている事実である。
たびかさなる過激な言動により投獄され、また行動方針の齟齬からその友人や弟子達と「絶交」していた当時の松陰にとって、この入江子遠はその弟とともに最後まで彼に付き従い、彼同様投獄されるに至った「知己」にほかならなかった。その「知己」が、幕府の法庭におもむこうとする松陰に死を求めるというのは異常な状況であると言ってよい。
もとより入江のこのことばは、自分たち兄弟をこの悲惨な状況に追い込んだ師にその責任を求めるものではない。いかなる結末に終わるやも知れぬ江戸行の前に、師がその生をみずから終えることでその身を潔(いさぎよ)くすべきだ、という「有終の美」的立場から発せられたものであった。ここからは松陰が生を偸(ぬす)まず有終の美を飾ることで、残された同志たちに起こる悲憤慷慨の情が、その尊攘運動に新展開をもたらすであろうという「先覚後起の思想」(高橋文博『吉田松陰』清水書院一九九八)を見ることができる。
この「先覚後起」の立場は、松陰がかねてよりの主張であり(『講孟余話』一八五七〈安政四〉年成立参照)、入江が行方の見えぬ江戸召還をひかえた松陰に死を求めたことは、師の従来の主張に沿ったものでもあった。事実松陰自身も、投獄直後には、「吾が輩皆に先駆て死んで見せたら観感して起るものあらん」(「某宛」一月一一日)と書き送り、「吾が知己なれば死を賜ふ事の周旋をして下され度し」(「岡部富太郎宛カ」四月九日)と、あくまでみずからの死を契機とした「後起」を切望していた。しかし、「賜死周旋」を請うたわずか三日後、彼は突然として死を拒否するに至る。
すなわち「吾が放囚し去らるるを待つて、大事乃ち籌(はか)るべし。丈夫は身なきを患(うれ)ふ、命を惜しむも君尤(とが)むることなかれ。」(「同囚の歌の後にして和作に示す」四月一二日)と詠った松陰は、生きながらえることにこそその希望を見出したのであった。松陰が入江の求めた死を拒絶した背景には、このような彼の死生観における転回があった。
本発表はこの松陰における劇的な転回の軌跡を、彼の「天壌無窮の神勅」理解および中国明代の思想家である李卓吾との出会いから論じることを目的とするものである。
松陰にとって「神勅」は、「日本は未だ亡びず、日本未だ亡びざれば正気重ねて発生の時は必ずある」(「堀江克之助宛」一〇月一一日)ことを保証する「神聖な約束」であった。したがってこれを真実と信じることは、同時にみずからの尊攘運動の成就を信じることであり、ひいてはみずからの志が永遠に継承されることを意味した。この志の永遠性が、みずからの生をその手で終らせることで「後起」をうながすといったそれまでの「死に急いだ」態度を転換させた一つの理由であった。
また、李卓吾との出会いは、死を生の対立概念としてではなく、あくまで生の一様態あるいは結果の一つととらえ、死を目的として生きるのではなく、「四時〔四季〕の順環」(『留魂録』一〇月二六日)のような全体としての生を生きる生のありかたを松陰に模索させることとなったのである。
たびかさなる過激な言動により投獄され、また行動方針の齟齬からその友人や弟子達と「絶交」していた当時の松陰にとって、この入江子遠はその弟とともに最後まで彼に付き従い、彼同様投獄されるに至った「知己」にほかならなかった。その「知己」が、幕府の法庭におもむこうとする松陰に死を求めるというのは異常な状況であると言ってよい。
もとより入江のこのことばは、自分たち兄弟をこの悲惨な状況に追い込んだ師にその責任を求めるものではない。いかなる結末に終わるやも知れぬ江戸行の前に、師がその生をみずから終えることでその身を潔(いさぎよ)くすべきだ、という「有終の美」的立場から発せられたものであった。ここからは松陰が生を偸(ぬす)まず有終の美を飾ることで、残された同志たちに起こる悲憤慷慨の情が、その尊攘運動に新展開をもたらすであろうという「先覚後起の思想」(高橋文博『吉田松陰』清水書院一九九八)を見ることができる。
この「先覚後起」の立場は、松陰がかねてよりの主張であり(『講孟余話』一八五七〈安政四〉年成立参照)、入江が行方の見えぬ江戸召還をひかえた松陰に死を求めたことは、師の従来の主張に沿ったものでもあった。事実松陰自身も、投獄直後には、「吾が輩皆に先駆て死んで見せたら観感して起るものあらん」(「某宛」一月一一日)と書き送り、「吾が知己なれば死を賜ふ事の周旋をして下され度し」(「岡部富太郎宛カ」四月九日)と、あくまでみずからの死を契機とした「後起」を切望していた。しかし、「賜死周旋」を請うたわずか三日後、彼は突然として死を拒否するに至る。
すなわち「吾が放囚し去らるるを待つて、大事乃ち籌(はか)るべし。丈夫は身なきを患(うれ)ふ、命を惜しむも君尤(とが)むることなかれ。」(「同囚の歌の後にして和作に示す」四月一二日)と詠った松陰は、生きながらえることにこそその希望を見出したのであった。松陰が入江の求めた死を拒絶した背景には、このような彼の死生観における転回があった。
本発表はこの松陰における劇的な転回の軌跡を、彼の「天壌無窮の神勅」理解および中国明代の思想家である李卓吾との出会いから論じることを目的とするものである。
松陰にとって「神勅」は、「日本は未だ亡びず、日本未だ亡びざれば正気重ねて発生の時は必ずある」(「堀江克之助宛」一〇月一一日)ことを保証する「神聖な約束」であった。したがってこれを真実と信じることは、同時にみずからの尊攘運動の成就を信じることであり、ひいてはみずからの志が永遠に継承されることを意味した。この志の永遠性が、みずからの生をその手で終らせることで「後起」をうながすといったそれまでの「死に急いだ」態度を転換させた一つの理由であった。
また、李卓吾との出会いは、死を生の対立概念としてではなく、あくまで生の一様態あるいは結果の一つととらえ、死を目的として生きるのではなく、「四時〔四季〕の順環」(『留魂録』一〇月二六日)のような全体としての生を生きる生のありかたを松陰に模索させることとなったのである。