今日のお題:東方君子国の落日――『新論』的世界観とその終焉(明治維新史学会『明治維新史研究』第3号、2006年12月)
はじめに(脚注省略)
戦前において刊行された「国体」の名を冠する思想史研究書・道徳書は枚挙にいとまがない。もとよりそのうちには、今日に至るもなおその学問的光彩を失わないものもあるが、多くの「国体」思想史家の筆法においては、「国体」は問題史的に日本歴史の上に投企され、たちまち天皇の「万世一系」と軌を一にした「国体」思想史が叙述されていったのである。
しかし、幕末志士・吉田松陰(一八三〇〈天保元〉?一八五九〈安政六〉)といわゆる「国体論争」(橋川文三)を展開した老朱子学者・山県太華(一七八一〈天明元〉?一八六六〈慶応二〉)が、「国体と云ふこと、宋時の書などに往々之れあり、我が邦の書には未だ見当らず。水府に於て始めて云ひ出せしことか」と断じたように、幕末において「国体」ということばは、出自の不確かな「新語」さらには「流行語」とすら認識されており、何ら近世日本思想を――いわんや日本思想全体を――代表しうる観念ではなかった。この意味で、「国体」ということばが思想的に生起する以前の日本思想を、この「国体」という観念をもって系譜論的に語ること自体、時間と空間とを超越した論理矛盾であったと言うべきであろう。まさに、L・アルチュセールが、「イデオロギーにはそれ自身の歴史はない」と指摘したゆえんである。
この「国体」ということばに対し、思想的な生命力を与え、幕末の「流行語」たらしめた幕末の思想家として会沢正志斎(一七八二〈天明二〉?一八六三〈文久三〉)を挙げることが出来るであろう。会沢が『新論』(一八二五〈文政八〉年成稿)において、日本の尊厳性を高らかに謳い上げた際に用いた「国体」ということばが、幕末の志たちを魅了し、さらには近代日本においても「魔術的な力」(丸山真男)をふるったことは周知の事実である。
しかし、近代天皇制国家が「国体というみずからのイデオロギーに与えることのできた根拠は、ただ「万世一系ノ天皇」(『大日本帝国憲法』一八八九年、第一条)だけであった。このことは、一八九○年に渙発された教育勅語においても同じであり、天皇統治の正統性を「万世一系」に求め、さらには五倫五常を中心とした徳目を「国体の精華」として示すにとどまっていたのである。
しかしながら「万世一系」というあくまで天皇制国家においてのみ妥当する価値を、「万邦無比」という形で誇称することは、特殊なるものを、「特殊なるがゆえに普遍的価値を有する」と主張する論理的誤謬を犯していたと言わざるを得ない。およそ或る王統における持続性は、その主権に服していない者にとっては、ほとんど価値あるものと認められないのであり、それは、一九七四年の革命により終焉したエチオピア王朝が、(その間の消長はありながらも)実に三千年の長きに及ぶものであったという事実に対し、われわれが抱く感覚を想起すれば容易に理解できることであろう。
なるほど「宝祚の長久」は「大八島国」においては、いわば「自然的」な事実(津田左右吉)であり、その限りで妥当性を有するものであったであろうが、それは「東の方は陸奥(みちのく)、西の方は遠つ値嘉(ちか)、南の方は土佐、北の方は佐渡の彼方(をち)の処」(祝詞「儺の祭の詞」)には及ぶものではなかった。それゆえ、近代に入り帝国主義国家として得た新領土で、この「宝祚の長久」にもとづく「御稜威」が無条件に瞻仰されるものとして迎えられる保証はなかったのであり、事実植民地の「新国民」に対し、いかに国民道徳を涵養するかということが、現実の課題ともなったのであった。いわんや、みずからの祖国を亡ぼされた民にとって、その原因たる征服者の「忠良ナル臣民」(『大日本帝国憲法』「告文」)たらんとすることは、実際のところ「忠臣孝子」の挙ではなく、むしろ「乱臣賊子」の行となる可能性を常にはらんでいた。また逆に、亡ぼされた祖国に「忠良」たらんとすれば、彼はまず「非国民」となる必要があったのである(一九一九年、大韓民国臨時政府成立)。このようにみれば、「万世一系」がいかに特殊日本的な価値であり、また普遍性を欠くものであったかは明らかであろう。
特殊なものを普遍的なるものとして主張することに起因するこの理論的脆弱性は、日本帝国の敗戦まで続く近代国体論のアポリアであり、あの『国体の本義』(一九三七)ですら、その「本義」を「大日本帝国は、万世一系の天皇皇祖の神勅を奉じて永遠にこれを統治し給ふ。これ、我が万古不易の国体である」と定義する以上のことができず、その残余の紙幅のほとんどを、やはり「国体の精華」という現象面の叙述に終始せざるをえなかったという原因ここに淵源していた。
このように「国体」――すなわち日本の尊厳性――を、天皇制国家においてのみ妥当する「万世一系」という事実に根拠させたことは、ほかならず自己の支配の正当性を客観的に証明する方途をみずから閉ざすこととなった。天皇制国家における真善美のすべての価値が「国体の精華」という恣意的な判断に基礎づけられ、「遊ぶ間、眠る間と雖も国を離れた私はなく……私生活の間にも天皇に帰一し国家に奉仕する」ことが求められるような私的領域に対する公的領域の無制限の侵犯は、まさにこの客観性の喪失に由来していたといえるであろう。
しかし、近代国体論の持つこのような理論的脆弱性は、その誕生のときから運命づけられていたのであろうか。本稿は、会沢の国体論の構造を明らかにすることをもって、この問いへの一つの答えとし、ついでその国体論が幕末においていかに受容・変容せられたかにまで言及しようとするものである。このことは同時に、近世独自の国体論――換言すれば近世特有の自民族中心主義の存在形態の探究に資するものであり、さらには、天皇制国家のイデオロギーとしての近代国体論の性質を、それに直接的に系譜するのではない「他者」としての近世思想の側から照射するものともなろう。
戦前において刊行された「国体」の名を冠する思想史研究書・道徳書は枚挙にいとまがない。もとよりそのうちには、今日に至るもなおその学問的光彩を失わないものもあるが、多くの「国体」思想史家の筆法においては、「国体」は問題史的に日本歴史の上に投企され、たちまち天皇の「万世一系」と軌を一にした「国体」思想史が叙述されていったのである。
しかし、幕末志士・吉田松陰(一八三〇〈天保元〉?一八五九〈安政六〉)といわゆる「国体論争」(橋川文三)を展開した老朱子学者・山県太華(一七八一〈天明元〉?一八六六〈慶応二〉)が、「国体と云ふこと、宋時の書などに往々之れあり、我が邦の書には未だ見当らず。水府に於て始めて云ひ出せしことか」と断じたように、幕末において「国体」ということばは、出自の不確かな「新語」さらには「流行語」とすら認識されており、何ら近世日本思想を――いわんや日本思想全体を――代表しうる観念ではなかった。この意味で、「国体」ということばが思想的に生起する以前の日本思想を、この「国体」という観念をもって系譜論的に語ること自体、時間と空間とを超越した論理矛盾であったと言うべきであろう。まさに、L・アルチュセールが、「イデオロギーにはそれ自身の歴史はない」と指摘したゆえんである。
この「国体」ということばに対し、思想的な生命力を与え、幕末の「流行語」たらしめた幕末の思想家として会沢正志斎(一七八二〈天明二〉?一八六三〈文久三〉)を挙げることが出来るであろう。会沢が『新論』(一八二五〈文政八〉年成稿)において、日本の尊厳性を高らかに謳い上げた際に用いた「国体」ということばが、幕末の志たちを魅了し、さらには近代日本においても「魔術的な力」(丸山真男)をふるったことは周知の事実である。
しかし、近代天皇制国家が「国体というみずからのイデオロギーに与えることのできた根拠は、ただ「万世一系ノ天皇」(『大日本帝国憲法』一八八九年、第一条)だけであった。このことは、一八九○年に渙発された教育勅語においても同じであり、天皇統治の正統性を「万世一系」に求め、さらには五倫五常を中心とした徳目を「国体の精華」として示すにとどまっていたのである。
しかしながら「万世一系」というあくまで天皇制国家においてのみ妥当する価値を、「万邦無比」という形で誇称することは、特殊なるものを、「特殊なるがゆえに普遍的価値を有する」と主張する論理的誤謬を犯していたと言わざるを得ない。およそ或る王統における持続性は、その主権に服していない者にとっては、ほとんど価値あるものと認められないのであり、それは、一九七四年の革命により終焉したエチオピア王朝が、(その間の消長はありながらも)実に三千年の長きに及ぶものであったという事実に対し、われわれが抱く感覚を想起すれば容易に理解できることであろう。
なるほど「宝祚の長久」は「大八島国」においては、いわば「自然的」な事実(津田左右吉)であり、その限りで妥当性を有するものであったであろうが、それは「東の方は陸奥(みちのく)、西の方は遠つ値嘉(ちか)、南の方は土佐、北の方は佐渡の彼方(をち)の処」(祝詞「儺の祭の詞」)には及ぶものではなかった。それゆえ、近代に入り帝国主義国家として得た新領土で、この「宝祚の長久」にもとづく「御稜威」が無条件に瞻仰されるものとして迎えられる保証はなかったのであり、事実植民地の「新国民」に対し、いかに国民道徳を涵養するかということが、現実の課題ともなったのであった。いわんや、みずからの祖国を亡ぼされた民にとって、その原因たる征服者の「忠良ナル臣民」(『大日本帝国憲法』「告文」)たらんとすることは、実際のところ「忠臣孝子」の挙ではなく、むしろ「乱臣賊子」の行となる可能性を常にはらんでいた。また逆に、亡ぼされた祖国に「忠良」たらんとすれば、彼はまず「非国民」となる必要があったのである(一九一九年、大韓民国臨時政府成立)。このようにみれば、「万世一系」がいかに特殊日本的な価値であり、また普遍性を欠くものであったかは明らかであろう。
特殊なものを普遍的なるものとして主張することに起因するこの理論的脆弱性は、日本帝国の敗戦まで続く近代国体論のアポリアであり、あの『国体の本義』(一九三七)ですら、その「本義」を「大日本帝国は、万世一系の天皇皇祖の神勅を奉じて永遠にこれを統治し給ふ。これ、我が万古不易の国体である」と定義する以上のことができず、その残余の紙幅のほとんどを、やはり「国体の精華」という現象面の叙述に終始せざるをえなかったという原因ここに淵源していた。
このように「国体」――すなわち日本の尊厳性――を、天皇制国家においてのみ妥当する「万世一系」という事実に根拠させたことは、ほかならず自己の支配の正当性を客観的に証明する方途をみずから閉ざすこととなった。天皇制国家における真善美のすべての価値が「国体の精華」という恣意的な判断に基礎づけられ、「遊ぶ間、眠る間と雖も国を離れた私はなく……私生活の間にも天皇に帰一し国家に奉仕する」ことが求められるような私的領域に対する公的領域の無制限の侵犯は、まさにこの客観性の喪失に由来していたといえるであろう。
しかし、近代国体論の持つこのような理論的脆弱性は、その誕生のときから運命づけられていたのであろうか。本稿は、会沢の国体論の構造を明らかにすることをもって、この問いへの一つの答えとし、ついでその国体論が幕末においていかに受容・変容せられたかにまで言及しようとするものである。このことは同時に、近世独自の国体論――換言すれば近世特有の自民族中心主義の存在形態の探究に資するものであり、さらには、天皇制国家のイデオロギーとしての近代国体論の性質を、それに直接的に系譜するのではない「他者」としての近世思想の側から照射するものともなろう。