2009年10月31日 (土)

今日のお題:「常州水府の学」としての水戸学――会沢正志斎を中心に(地方史研究協議会編『茨城の歴史的環境と地域形成』雄山閣、2009年10月、91?110頁)

$FILE1_l Amazon.co.jp: 茨城の歴史的環境と地域形成: 地方史研究協議会: 本

   はじめに

近世日本にはいくつかの学派が存在する。これらの学派の多くはその首唱者あるいはその私塾の名をもって記され、特定の地域がその学派の呼称として通行した例は少ない。それは日本における思想の伝達が、思惟様式それ自体ではなく、しばしばある人物の思惟様式の解釈をめぐって展開されてきたことと無縁ではないであろう(日本仏教における始祖崇拝などもこの問題と揆を一にするものと言える)。

近世後期の水戸藩において展開した「水戸学」と呼ばれる学派は、この意味で例外的な存在であり、またその呼称はそれが特定の人物によって創始されたものではないことを示している。しかしこの学派が「水戸学」あるいは「水府の学」とはじめて呼称されたとき、むしろそれは新奇な学説を唱える集団として見做されたのであり、長州藩校明倫館の学頭を務めたこともある朱子学者の山県太華(一七八一?一八六六)は、幕末志士である吉田松陰(一八三〇?五九)との論争の中で次のように述べている。

「近頃世上に水府一流の学者之れあり……本藩にても近来水府の学を信ずる者間々之れあり、近侍の臣又は政府の間にかやうの人もありて、或は君を惑はし奉り、又は政事の間に此の意移らば、其の害勝げて言ふべからず。」

太華は「其の害勝げて言ふべからず」とすら指弾したが、この表現は、その背後に水戸を中心として展開された言説がまぎれもなく体系を有した一箇の学派であるという認識が存在していたことを意味するものでもある。しかしながらこの言説は、研究史的にしばしば太華の指摘する「害」の部分、すなわち政治的主張としての尊王攘夷論がとくに注目されたために、政治思想史の文脈を中心に研究され、それゆえ、その学派としての体系的な思惟様式への言及は必ずしも多くはなかった。

「尊皇」思想としての水戸学それ自体に価値が見出された戦前において、「苟しくも大義を明らかにし人心を正せば、皇道奚(いずくん)ぞ興起せざるを患へん」(「回天詩」)と詠った藤田東湖(文化三〈一八〇六〉?安政二〈一八五五〉)に、政治思想史的研究が集中したことは当然であったと言えよう。これに対し、戦後はいわゆる皇国史観に対する反省から、水戸学を明治国家における政治的イデオロギーの基礎として研究する傾向が強まる。それゆえ幽谷・東湖父子のような実践家ではなく、「祭は以て政となり、政は以て教となり、教と政とは、未だ嘗て分ちて二となさず」(『新論』文政八〈一八二五〉)と主張した理論家(イデオローグ)としての会沢正志斎(天明二〈一七八二〉?文久三〈一八六三〉)が中心的に取り上げられることとなった。日本の敗戦を前後して、水戸学に対する評価は大きく変わったが、そのいずれの場合においても、水戸学を近代天皇制国家との強い連続性のうちに捉えようとする点においては、変わることはなかったのである。

このような、いわば近代という歴史的帰着点から分析しようとする限り、水戸学が成立した近世という思想世界から、それは切り離されて解釈されざるをえなくなる。それゆえ、彼らの主張はしばしば近代的に再解釈され、その理解から逸脱する部分はこれを軽視、あるいは黙殺することすらなされたのである。たとえば、幽谷・東湖の「全集」を編纂した菊池謙二郎(一八六七?一九四五)は次のように述べている。

「新論の冒頭に『神州は太陽の出づる所、元気の始まる所』とあり又神州は世界の首部を占め、西洋諸国は脛足に当り、亜墨利加は背部〔原・背郎〕に当るとあるを見て、事理に通ぜぬ誇大の言辞であると貶(けな)すものもあるが是は蓋し著者の寓意のある所である。……正志斎が対外策を論ずるに際し、先づこの自屈自卑の弊風を打破し、自尊自負の気風を喚起し国土をして自ら恃む所を知らしめんとて殊更にかゝる譬喩を用ひたるものと察せらる。『太陽の出づる所』とあるを、文字通りに解釈する者のあるのは其人の理解力理想力が足らぬのである。百年以前の人であつても、太陽が実際我国より出る出ないは問題にせぬことは明かである」

会沢は『新論』において、大地を身体ととらえ、その東方に位置する日本を陽気のはじまるところであり、それゆえ大地の元首であるという独自の世界像を叙述している。すでに別稿で述べたように、それは会沢独自の易理解に深く根ざした神学体系であり、決して「寓意」などではなかった。

もとより今日のわれわれにとって、地球が丸い以上、日本が極東に存在する「事実」を、「東方君子国」としての尊厳性の根拠とする会沢の論理には疑問を呈せざるをえない。菊池もまた近代人として、これを額面通りに受け取ることが出来なかったであろうことは想像に難くない。そのため彼は会沢の世界像を「寓意」とみなすことで「処理」したのであり、それ自体は科学的で合理的な態度であると言えよう。しかしそれが会沢の思惟そのものを理解したものであるのかという点に関しては疑問が残る。むしろそこには会沢を近代国体論に連続させることで、彼を近代の磁場のうちに取り込もうとする態度こそが見出される。そしてこの態度は、立場を変えながらも戦後の水戸学研究においても承け継がれているのであり、そこにおける会沢は、天皇制国家の先駆的イデオローグとして描かれることとなる。それは歴史の不可遡性をに対する過ちを犯していたと言わざるを得ない。

本稿は、これまでの水戸学研究におけるこのような動向への反省から出発し、あくまで水戸学を近世という思想世界に置くことで、その特質を論ずることを目的とするものである。この作業によって、水戸学がたんに観念的な言説のみに根拠するのではなく、「日域之東首」(会沢正志斎『下学邇言』弘化四年〈一八四七〉起稿)と呼ばれたこの常陸国という空間においてはじめて成立しうる、まさに「常州水府の学」とも言うべき地域的な特殊性を有した思想であったことを明らかにしていきたい。

<< 「あこがれ」としての病院信仰(日本思想史学会2009年度大会「パネルセッション1 在宅ホスピスの現場における日本思想史研究の可能性:「病院死」を選択する日本人」、2009年09月18日、仙台市・東北大学) | main | 「倒幕」へと志士達を突き進ませた吉田松陰の「松下村塾」:『商工にっぽん』(2009年10月号、20?23頁):【特集1】ムーブメントと場 >>