2010年10月19日 (火)

今日のお題:浅草寺への旅

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日本文化論なんかを教えている割には行ったことのないのが、浅草寺でございます。浅草寺と言えばあの巨大な赤提灯。焼鳥屋でもないのになぜぶら下がっているのか。まぁ、それはさておき、長年の悲願であった浅草寺にやって参りました。

浅草寺のご本尊といえば、観音様なわけですが、この観音様が示現する過程が非常に面白うございます。いわゆる「縁起」というヤツですが、『武蔵国浅草寺縁起』(応永年間〈1394?1428〉成立カ、『続群書類聚』805巻、活字版27下・釈家部)には、こんなことが書いてあります。



$FILE3_l推古天皇〔傍註・人王卅四代〕三十六戊子年〔628年〕三月十八日癸丑。碧落に雲きへて蒼溟に風しづかなる朝。江戸浦にて釣をたれ網を引業をなしけるに。おぼえず観音の像のみ網にかゝり給ひて。いと更に游魚の類は釣をもしづめざりけり。

爰にあまのたぐ縄くり返し。又こと浦に浦づとふといへども。七浦の浦ごとにさながらおなじさまなる仏像のみかゝり給へり。此鼇海の化仏を見奉るも。彼巫山の神女にあへりしがごとし。

かれは雨となり雲と成にけり。是は海にうかび波に浮たまへり。宝の冠瓔珞蕩々として。金色荘厳篤々たり。左手蓮花を持しめ。右に無畏をほどこし給ふ。又五色の雲なびけ。四花の台かふばし。是によりて猟師さらに機縁のあさからざる事を思ふに。信心ふかく催れて。一たひ霊容を拝し奉るに。数行の涙におぼる。いよいよ掌を合頭を低て海人のかりそめ臥の蘆のまろやをあらためて。観音の濁にしよぬ蓮華の台とぞなせりける。

同十九日浜成等霊像にむかひ奉り。掌を合て游魚をのぞみ。其祈の詞にいはく。我らすでに昨日はいたづらに手をむなしくして帰りぬ。けふは観音よく霊験をたれて魚をとらしめ給へと祈念して網をおろすに。大小の魚すなはち綱の目に余る。長短のうろくづ忽に船中にみち々々たり。舎屋の男女貴賤同じく観音の威験をあふぎけり。是によりて旧居のすみ家をあらためて永く新搆の寺とす。

彼時の土師の直の中知・浜成・竹成は今の三所権現是也。内には妙覚高貴の尊体をかくし。外には惣地下位の漁父とあらはれ給ふ。利益衆生の方便まことに貴るべし〈適宜改行などを加えた)。




観音様は天から降ってきたわけでもなく、地から湧いたのでもなく、海からやってきたというあたり、いろいろと想像をたくましくする余地がありそうですが、そういう『海神記』的なお話しはさておき、漁師が網で引っかけて発見したというところがステキです。

しかも観音様を引き上げても、この漁師どもはすぐに「有難い有難い」と言って崇め奉ったわけではありません。「七浦の浦ごとにさながらおなじさまなる仏像のみかゝり給へり」と言うのですから、7回も網にかけている――つまりこの人たちは不届きにも、6回にわたって観音様を海に投棄しているわけです。まぁ、これが事実であるかといったことは抜きにして、何度も投棄する方も投棄する方ですが、何度も示現する方も示現する方だなぁと思います。

まぁ、これが観世音菩薩の大慈悲というものなのでしょうが、それでもこの慈悲を感じる能力に欠けた浜成たちがいないと示現できないというところがミソでありまして、こののち彼らは、観音様を発見したことで三所権現――つまり神様になってしまうというのですから、さらに驚きであります。

まぁ、縁起の行論としては、そもそもこれらの漁師は、観音菩薩と感応しうる「妙覚高貴の尊体」を有した存在であり、漁師というのはあくまで現世の仮の姿に過ぎなかった――ということになってますので、彼らが観音様を見つけるのは、そもそも必然であったと申せましょう。

なんか近代的時間観念を有した人間には理解しがたいところではありますが、そういった一回性の死生しか認識できない凡夫の思考のさらに斜め上を行く因縁の連環は、まことにもって広大無辺の御恵みと申せましょう。

さて、この神様になった漁師たちがどうなったのかということについては、また改めてお話ししましょう。

ヒントはこれです。
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