2011年01月29日 (土)

今日のお題:浅草神社

ずいぶんと久しく書き込んでいなかったのですが、単純に忙しかっただけで、じゃぁ、今は忙しくないのかと言われると、実際の所そうではなく、諸般の事情で身動きが取れない状況のため、この期に懸案を片付けようという次第。

さて、以前お話しした浅草寺の件ですが、観音様を引き揚げた漁師は神様になりました。そして、こうなったわけです。

$FILE1_l

浅草神社です。三社祭ですとかでよく知られているあの浅草神社ですね。かつては三社様ですとか三社大権現とか言われていた神社です。まぁ、祀られた人間が三人ですから三社様とはなるほどぴったりなネーミングであると申せます。

「浅草寺」「浅草神社」とでは、耳で聞いた際にずいぶんと異なって感じます。しかし、よくよく見れば――それほど見なくても――「浅草」という地名を音読みするか、訓読みするかの違いでしかないわけです。

で、この浅草神社に件(くだん)の漁師たちが神と祀られもったい無さ?よ?、というわけですね(なぜ唄う)。

前回の写真が、これだったわけですが、

"ファイル

反対から見るとこのようになります。

$FILE2_l

浅草神社の鳥居と浅草寺の本堂が並んでいることがよくわかりますね。お隣さんと言ってもよろしいのですが、むしろ浅草寺の境内に浅草神社があると言った方が正確かも知れません。

浅草寺の地図:マピオン
http://www.mapion.co.jp/m/35.7115417_139.7999639_8/v=m2:%E6%B5%85%E8%8D%89%E5%AF%BA/

浅草神社の境内は、浅草寺に比べると人出が少なく、これはこれで気持ちの良いところです。みなさん、「なんでこんな所に神社があるんだろう」、という感じでスルーしてしまうのでしょうね。

$FILE3_l

まぁ、中には「昔の神仏混淆の名残なのね?」みたいなことをおっしゃる方もいるとは思いますが、当方としては、半分アタリで半分ハズレな感じです。

と、申しますのも、この浅草神社と浅草寺は決してたんに「混淆」していたわけではないからです。つまり、浅草神社の祭神である漁師たち3人がいたからこそ、観音様は示現することが出来たのであり、逆に言えば、観音様が示現したからこそ彼らは神様になり得たのだ――そのように言えるのではないかと。

さらに思考をたくましくさせると、観音様の大慈悲を衆生に顕現させるには、三社様という神様――しかもそれは漁師たちが形成する漁業共同体の代表でもあります――を媒介として、これを戴く必要があったと言えるでしょう。

    観 音 様…大慈悲の所持者
    ↑  |
    祭祀 恩恵
    |  ↓
    三 社 様…漁業共同体の代表
    ↑  |
    祭祀 恩恵
    |  ↓
    漁業共同体…恩恵を受ける主体

$FILE4_l

つまり、神仏は相互に依存した形でもって、その宗教空間を形作っていたわけでありまして、単純に雑居していたわけではないということです。こういった習合(習〈かさ〉ね合わさること)のありかたこそ、近代以前における神仏関係の一般的な姿であったと申せます。

しかし、教育委員会が建てた由緒書きなどをみると、そのあたりのことは華麗にスルーされ、創建も不明、典拠も「明治初期の文書」となんとも心細い限りとなっております。ここら辺が実に残念な所ではあります。

結局の所、明治初年の神仏分離によって神道と仏教とは別の存在であると政治的に決められたために、それまでに存在していた宗教空間が否定されてしまったわけです。浅草寺の縁起が推古朝であるのなら、浅草神社だってその時期でよいと思うのですが、そうはいかないのが何とも。

$FILE5_l

とはいえ、社務所にある絵馬を見ると、浅草神社の由緒がよくわかってとてもステキです。ある意味、絵巻物的な時空間構成になっているのも面白い。なにげに「三社大権現」と書いてありますし。戴いてくれば良かったなぁ。
 
 
 
 

<< 中村義・久保田文次・陶徳民・藤井昇三・川邉雄大・町泉寿郎編『近代日中関係史人名辞典』(東京堂出版、2010年7月) | main | 「安心安全」を求めて >>