2011年03月05日 (土)

今日のお題:桐原健真「死して朽ちず:吉田松陰の死と生」、財団法人東北多文化アカデミー・多文化講座「介護と看取りのセミナー」、仙台市・東北多文化アカデミー、2011年03月05日

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以前論文に書いたものをふまえたものではあるのですが、やはり自分自身の論文や、これまで見慣れていた資料を読み返すと、その都度新しい発見があります。

と、いうか、発見の余地のある論文を出すのは如何なものか、という所ではありますが。

で、今回改めて思ったのが、再投獄中の1859年春ごろの、いろいろな意味で痛々しい時期に松陰書いた次の書翰。

今日の事、万成らざるに期す…然れども僕にして能く死せば、亡師友に負かずと為さん。是れ僕の安心立命、諸友と同じからざる所以なり…子遠兄弟は、僕、少しくも哀みて之れを惜しまず。人孰れか死なからん、兄弟同じく王事に死せば、忠孝尽せり、死すと雖も朽ちず。(「福原又四郎に復す」1859年03月05日頃)

むかし注目していたのは、後半部分の入江杉蔵(子遠)兄弟にも自分と同じように死んで欲しいといういわば死の強要の箇所だったのですが、あらためて読んでみると、核心部分は前半の「僕にして能く死せば、亡師友に負かずと為さん」であるように思えてきた次第。

注目すべきは「能く死せば」の「能く」つまり「可能」の「能」であります。すなわち、この「よく」は、「良不良」の「よく」ではなく、「能不能」の「よく」なわけです。

これまで、「嗚嗟、『能く』だよね」と意味の上でわかったつもりになっていたのですが、この一字の重みに、今回改めて思い至りました。「僕にして死せば」と「僕にして能く死せば」との間には、かなりの違いがあります。

「自分にとっては、死ぬことが出来れば、すでに無くなった師匠や友人に顔向けが出来るといえます」と松陰は言うわけですね。たんなる仮定として「自分が死んだら」といっているわけではないところがキモなのでしょう。

死ねばすべてが解決される――そこには徹底的に手段化された結果、自己目的的になってしまった死だけが存在していると申せます。まさに松陰の絶望の深さが読みとれるところではあります。

しかしこの松陰は、やがてこの絶望の淵から鮮やかに転生します。先日兄とともに死んでくれることを臨んだ野村和作に宛てて次のように言うのですから、さぞかし弟子も驚いたことでしょう。

此の道至大、餓死・諫死・縊死・誅死皆妙、却きて一生を偸む亦妙。一死実に難し。然れども生を偸むの更に難きに如かざる事始めて悟れり。(「野村和作宛」1859年04月ごろ)

死んでも良いし、生きていても良い。死ぬのは大変だが、生き続けるのはもっと困難なことなのだ。「賜死周旋」――自分が死罪になるよう周囲の人々に働きかけ、盲目的に死を求めていたのは、ひとえにその困難を避けていたに過ぎない。

このように悟った松陰は、「出来る事をして行き当つつれば、又獄になりと首の座になりと行く所に行く」(「品川弥二郎宛カ」1859年04月22日)とまで言うようになります。

しかし、このように松陰が死から生へと大きくその立場を転換した直後、安政の大獄の波が彼を襲うこととなり、みずから予言していた「首の座」へと進むことになりました。

この松陰の死が、彼の友人や弟子達を鼓舞したことは確かです。しかし、松陰は、彼れらを鼓舞するために死んだわけではありません。彼の死は、あくまで「出来る事をして行き当」った結果でありました。松陰は自分の出来うる限りのことをした上で、その生を終えたのであり、その死になにか特権的な意味を付すことは彼の意をかえって損なうものであるのかもしれません。

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