2011年04月15日 (金)

今日のお題:第三のセカイ

今回の震災を「第三の敗戦」と言っている方がおられるそうです。というか、堺屋太一氏なんですが。もうすでに、オープンソースでは見られなくなってしまったので、一応こんな感じで、世間様では話題になっているということをご案内しておきましょう。

東日本大震災は、日本にとって「第三の敗戦」である。 - Google 検索

で、どのようなことをおっしゃったかと申しますと、だいたいこんなことです。


*[論点]大震災からの復興 「それ以前の日本」に戻すな 堺屋太一氏(『読売新聞』2011年04月12日付朝刊07面)

東日本大震災は、日本にとって「第三の敗戦」である。第一の敗戦は、1863年の薩英戦争と、翌年の四か国艦隊による下関砲撃、馬関戦争だ。この敗戦で、強いと思われていた武士が実は弱い、身分と様式美に守られているだけだということがわかり、5年後に明治維新が起こった

第二の敗戦は、1945年の太平洋戦争の敗戦だ。大日本帝国というコンセプト(概念)が間違っていたことがわかり、軍務官僚や内務官僚の主導をやめて、経済官僚主導で業界協調体制を作った。その結果、一時は、世界で最も完璧な近代工業社会を実現した。

過去2回の敗戦で、日本はそれ以前よりずっと素晴らしい国になった。それは、「それ以前の日本」に戻そうとしなかったからだ。

〔中略〕

私たちは今、これまでの体制とか、その根本にある倫理観とかを捨てて、全く新しい国づくりをしないといけない。

〔以下略〕



「全く新しい国づくりをしないといけない」というのは、その通りだと思いますが、「第三の敗戦」というのは、はたしてどこからやってきたことばなのでしょうか。私どもは、いつどこで戦争をやっていたのか、というのがどうにも心に引っかかります。

実際のところ、この「第三の?」という表現は、「第三の開国」とペアになっているのではないかと思うのです。

つまり、

-第1回 ペリー浦賀来航(1853年)
-第2回 マッカーサー厚木来着(1945年)

に続く、「第三の開国」でございます。

アメリカによる占領とこれに続く復興を「第二の開国」ととらえる見方は、今日、随分広く受け入れられてるように思いますが、そもそもマッカーサーは、来た当初から自分とペリーを重ねていたようで、降伏文書の調印式を行ったミズーリ号の甲板には、ペリー艦隊の掲げた星条旗が飾られており、さらにこんな演説までしております。


今日われわれは、92年前のわれらが同胞たるペリー提督を想起reminiscentしながら東京に立っている。彼の目的は、日本に啓蒙と進歩の時代をもたらし、世界の和親と交易そして通商に対する孤立のベールを引き上げることであった。しかし、已(やん)ぬる哉(かな)、これによって西洋科学から得た知識は、弾圧と奴隷化の装置へと変造されてしまったのである。
**Douglas MacArthur, Reminiscences New York : McGraw-Hill, 1964. pp.276.


「回想記Reminiscences」と題する著作の中で「想起reminiscent」するなんて、マ元帥シャレたことをするものですね。

まぁ、それは置いておくとして、この第一・第二に対して、「第三の開国」を喧伝することで、なんらかの社会変革改革を提議する言説というものが、1970年代頃から現れて参ります。

つい最近で申しますと、今年のアタマに日本の首相



一つ目の国づくりの理念、それは「平成の開国」です。……この第三の開国には過去の開国にはない困難も伴います。価値観が多様化する中、明確なビジョンを提示し、国民の総意を形成する努力を地道に積み重ねていかねばなりません。

**菅内閣総理大臣 平成二十三年 年頭所感



と申されております。

およそ「第三のほにゃらら」と申しますと、第一・第二の経験や反省が生かされているような感じがしますが、他方でそこには、日本が「負けている」とか「鎖国している」といった自己認識の存在を看取することが出来ます。

負けないと何も出来ないのか、あるいは万年引きこもりの国が日本なのか、という感じがとても致します。

なお、「第三の開国」言説については、論文を書いたのでそのうち出るはずです。いま、初稿の直しをしています。とはいえ、地震の前に書いたので、ずいぶんと色あせて見えるのですがね。

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