2015年06月04日 (木)

今日のお題:桐原健真「吉田松陰の実像―「垣」を越える―」(広島市・広島県立総合体育館中会議室、ひろしま日本史を学ぶ会、2015年05月16日)

今回は「ひろしま日本史を学ぶ会」さんのお招きで一席打ってきた次第。

当方、広島は初上陸でございまして、ちょうど会場の対面が原爆ドームだったので、お決まりのように写真に収めたですよ。

原爆ドーム

さて、肝心の中身ですが、松陰の「実像」とまで銘打ってしまったからには、実像を描かなければならないわけでして、はたして、あの男の実像ってどんなもんだろうと考えて見たわけでございます。で、書いてみると、こんな感じです。
たしかに松陰という人物の生涯は、失敗の連続であり、その功を成したところは少ないと言わざるを得ない。試みに、彼の一生を一文で描き出してみよう。家学としての山鹿流兵学に失望し、代わって西洋兵学や蘭学を志すもほとんど成るところがなく、また仇討ちする友人のために脱藩するも本懐は遂げさせられず、さらに浪人となり諸国遊学に出るも黒船来航により世情は流動化し、その打開のため密航によって海外渡航を試みるも事破れて獄に投じられ、出獄後にやがて松下村塾を主宰して後身を教育するもわずか三年でふたたび投獄され、ついで獄中で策動を図るもことごとく頓挫し、最後に召喚された江戸では生還を期すもついに生きて帰ることはなかった。ことほどかように、松陰の生涯は「蹉跌の歴史」(徳富蘇峰)とならざるを得ない。(拙著『吉田松陰』)

……なんとも紆余曲折と申しますか、あの短い一生でここまでやったもんだと感嘆してもよろしいかと。

こういう紆余曲折を通して、あの「癸丑(1853)以前」に、自らに対峙する西洋に抵抗する自己を発見するという自他認識の転回を経たのであり、松陰の先駆性というのは、黒船以前に防衛する対象として日本を発見し、五ヶ国条約以前に一国家一元首の原則を発見したという所にあるかと。

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