今日のお題:桐原健真「三山と松陰」、奈良県立大学ユーラシア研究センター「谷三山研究会」、奈良市・奈良県立大学、2017年09月11日
1853年に松陰は、江戸に向けて諸国遊歴を続けていた。その際、大和周辺に3ヶ月ほど滞在している。そこで出会った大和五條の森田節斎や八木の谷三山に、松陰は強い影響をうけた。そしてまた、斎藤拙堂『海外異伝』(1850)をめぐる論争に巻き込まれ、彼自身も、学問とはいかにあるべきか、なにをなすべきかを問うていくこととなる。
おわりに
帰一協会の試みを、いわゆる宗教間対話Interfaith dialogueと考えることも可能かもしれません。しかし、対話はどこまでも、彼我 dia- の関係でしかありません。「対」している限り、「帰一」はできないのです。
帰一協会は、初期の段階で、帰一の困難性に気づきました。個々の宗教は、各々独立して存在しており、その事実を否定して新たな教を立てることはできない。それゆえに帰一協会は、なにかの「形式」を遺すのではなく、宗教者や宗教に関心を有するものたちが集う「場」を形作ることへとシフトしていきました。
それはいわば、宗教間協業Interfaith Cooperationとしての場であり、Association Concordiaの名にふさわしい営みであったと言えます。こうした宗教間協業の実践は、果たして今日どのような形でなし得るものなのでしょうか。帰一協会の知的営為を踏まえつつ、改めて考えて見る必要があるでしょう。
以上で発表を終わります。ご静聴感謝いたします。
古典語としての「公論」は、しばしば「天下後世自づから公論有り」のような形で用いられる。ここからは、「公論=公正な議論」は、「天下後世」という広範囲かつ長期的な評価を俟ってはじめて成立するのだという認識が読み取れよう。
しかし、黒船来航以後に活発化する言論や政治的混乱は、「公論」ということばに、「公共空間での議論」という意味を与えていった。こうした「公論」は、やがて「公」を独占する「公儀」と対峙していくこととなる。
尊攘の志士たちは、「尊攘」の「大義」を「衆議」することこそ、「公論」であり、また「正議」であると信じていた。それゆえ、彼らを弾圧する安政の大獄は、この「正議」を否定する「私」であり、その排除は「公」にほかならない――こうした理論武装によって、幕府大老へのテロリズムは実行されたのである。
本発表は、こうした「公論」概念の変容を通して、幕末日本における言論空間の存在形態を検討することを目的とするものである。
参考:"尊農攘夷" - Google 検索
http://www.google.com/search?hl=ja&lr=&ie=UTF-8&oe=UTF-8&num=50&q=%22%E5%B0%8A%E8%BE%B2%E6%94%98%E5%A4%B7%22
とはいえ、この「尊農攘夷」なることばは、決して昨日今日できたモノではございませんで、1980年代初頭の日米貿易摩擦問題の際にもすでに見えております。
本家本元の「尊王攘夷」が、「弘道館記」(1838年)以来のことばであり、20年程度で、「尊王倒幕」の声に取って代わられたことを考えますと、この「尊農攘夷」の生命力は、本家のそれよりもはるかに長いと申せます。とは申しましても、その意味内容は、その時々で変容しており、また断続的に叫ばれているわけでありますから、そこに見るべきものは、「尊農攘夷」の生命力ではなく、思想の継受性が弱い「日本の思想」(by 丸山真男)の特徴なのかも知れません。
法学・政治学をご専門にされている方々にお話しするのは、珍しいことなので、とても大変よい刺激になりました。夜も美味しかったです。