明治という時代がはじまって間もない一八六九年から翌年にかけて、明治国家は一つの外交問題に直面していた。すなわち各国君主の敬称をいかに表記すべきかという問題である。もとよりそれは日本の独立そのものが危機に瀕している中においては、数ある諸問題のうちの一つに過ぎなかったとも言えるが、これによって外交文書の往来に渋滞を来したことを考えれば、決して過少視しうるものではないであろう。
ことは一八六九年二月三〇日(陰暦)に各国君主の辰誕(生年月日)を照会する外国官(外務省の前身)よりの和文書簡において、イタリア国王を「国王殿下」と呼称したことから始まる。そもそも君主の呼称にはhis/her Majesty(陛下)を用いることが一般であるにもかかわらず、あえて「陛下」に一等降る「殿下」(his/her Highness)を用いたことは、外交的礼義からはずれたものであり、イタリア公使がこの書簡を「差返」したというのも軽々に非難することは出来ない。しかしながら、外国官においてはこのイタリア公使の異議申し立てに対し、「国王と相認候上は、殿下の文字相加候は先至当の儀」であると「殿下」号の使用を譲ろうとはせず、かくてイタリア公使との間の外交文書の往来に渋滞が生じるに至ったのである。
この問題はたんなる敬称問題ではなく、日本が「天皇陛下」を戴く「帝国」であり、「国王」を戴く「王国」とは質的にも異なっているという自己認識がその背景にあった。それは、近世東アジアにおける華夷秩序と近代西洋国家間関係という異質な国際秩序認識の混在がもたらしたものでもあった。本発表はこのような「帝国」日本認識の思想史的背景をふまえ、それが近代においていかに変容したのかということを明らかにすることを目指すものである。