2004年09月24日 (金)

今日のお題:幕末維新期における西洋社会事業思想の受容(近世の西洋と日本における社会事業思想:「2004年渋沢国際儒教研究セミナー 比較視野のなかの社会公益事業」、2004年9月24?25日)

【はじめに】本報告は、西洋における社会事業活動やその思想を、幕末維新期の日本人がいかに認識したかを検討することで、近代日本における社会事業の前提にあったものを明らかにすることを目的とする。もとより近世日本にも社会事業が存在しなかったわけではないが、本報告では西洋における社会事業に接したことがいかなる思想的変容をもたらしたかを中心に論ずるものである。ただし本要旨では、まず幕末維新期の理解に資するべく、これに先行する時代をも概観しておきたい。

【西洋社会事業との邂逅】日本人がはじめて接した西洋人による社会事業の活動は、16世紀後半、イエズス会士が宗教施設とともに設けた病院などの慈善施設であった。これらの施設はキリシタン禁制の過程で近世初期に消滅したが、宗教者による体系的な慈善活動という記憶は、日本人に強い印象を残すものであった。ただしその評価は、民衆を誘引し侵略する手段として理解されたように必ずしも肯定的なものではなかった。このような理解は、宗教的慈善精神に基づく社会事業に対する一つの典型例として、19世紀初頭に成立した後期水戸学者たちにも引き継がれていくこととなる。

一方で、18世紀後半に西洋の文物が流入するに従い、政策としての社会事業に関する知識がもたらされるようになった。大黒屋光太夫のロシア漂流記である『北槎聞略』(1794)には、病院や幼院(孤児院)の記述がある。編者の蘭学者桂川甫周は「明人の説」を引き、病院の設備を「是欧羅巴洲、人を愛する風俗の然らしむる処なり」と紹介しており、これらが慈善精神に基づいて設立されているという理解を示していた。だが、西洋における社会事業の根幹にある慈善精神に関心が持たれるようになるには、アヘン戦争後に成立する清国人魏源の著した『海国図志』(1842年50巻本・1847年60巻本・1852年100巻本)の将来を俟たねばならなかった。

【西洋社会事業への肯定的評価】『海国図志』(とくに60巻本)が幕末維新期の日本人に大きな影響を与えたことは周知の通りである。とくに貧院・病院・幼院などの詳細な叙述は、「病院・幼院・唖聾院等を設け、政教悉く倫理によつて生民の為にするに急ならざるはなし、殆三代の治教に符合す」(横井小楠「国是三論」1860年)というような西洋社会事業の精神に対する高い評価を与える根拠ともなったのである。そしてこのような書物における知識は、やがて幕府による遣外使節団に随行した人々によって再確認され、近代日本における社会事業の精神を形作ることとなる。

【西洋社会事業思想の受容】福沢諭吉は、三次にわたる西洋行の実体験から著した『西洋事情』(初編1866年)において、「扶助の法」をはじめとした西洋社会のシステムを描き出すことで、近代化過程を歩み始めた日本人に「文明」のありようを示し、また同時期に渡仏した渋沢栄一も、西洋における人命を尊重し、事業を公共のために興す点に、その繁栄の源を見ていた(『航西日記』1870年)。かれらのような帰国者の西洋経験こそが、近代日本における社会事業の一つの出発点であり、事実かれらの多くは、そののち積極的に社会に関わっていったのである。

2003年10月19日 (日)

今日のお題:「松陰と白旗――『国際社会』認識の転回」(2003年度日本思想史学会パネルセッション「吉田松陰研究の現在――開国前後の対外観を中心に」、2003年10月19日)

日本にとって幕末維新期は、「国際社会」という名の西洋国家間システムを受容すると同時に、みずからを一箇の統一態として自覚する過程でもあった。本報告は、戦闘停止の意志表明である「白旗」に代表される「外夷の法」を、兵学者たる松陰がいかに認識し、受容していったかを明らかにすることで、松陰における「国際社会」理解を論ずるものである。

ペリー艦隊が来航した際に、白旗に添えられたとされる降伏勧告とも言うべき内容の「白旗書簡」の真偽について、近年論議が起きており、この白旗書簡をふまえ、アメリカの砲艦外交を厳しく指弾した人物に佐久間象山がいることはしばしば指摘されている(「ハリスとの折衝案に関する幕府宛上書稿」一八五八(安政五)年、日本思想大系『渡辺崋山・高野長英・佐久間象山・横井小楠・橋本左内』岩波書店一九七一年)。その一方で象山を終生「吾が師」と呼び師事し続けた吉田松陰(一八三〇〈天保元〉?一八五九〈安政六〉)が、この「白旗書簡」について、「此書翰寅遂不レ能レ信」(『対灯私記』松陰頭註、一八五四〈安政元〉)と指摘していた事実はこれまでほとんど注目されてこなかった。

松本健一氏は、「〔ペリー来航の〕一八五三年の時点で、日本人はまだ、白旗が降伏のメッセージであるという国際法的な取り決めを知らなかった」(『白旗伝説』講談社一九九八年)と指摘したが、一八一九(文政二)年に、オランダ船が水を求め白旗を掲げた記述があるように(「ヤン・コック・ブロムホフの日記」一八一九年一一月一三日条、日蘭学会編『長崎オランダ商館日記』八巻、雄松堂出版一九九七年)、白旗の存在とその機能について、日本人のすべてが無知であったとは言えない。兵学師範時代の松陰も、一八四〇?四二年分の『和蘭別段風説書』を読み、「戦敗れて降を乞ふ時は、白旗を船上に引き揚ぐ」(「問条」一八五〇〈嘉永三〉)というその機能を認知していた。しかし松陰は、白旗という「外夷の法」を「我れに在りて必ずしも知らず」と断じ、これを「一々遵守する」ことは「人に致さるる」ことであると考え、その承認を拒否していた。

このような独善的・自民族中心的な態度は、みずからの講ずる伝統兵学へのいわば根拠のない信頼に基づいていたが、一八五〇(嘉永三)年秋の平戸・長崎遊学において乗船したオランダ商船の巨大さを実感し、また清国人魏源の『聖武記』をはじめとした海外知識を摂取した結果、それは次第に変容していった。そして、「今誠に旧に率はんと欲せば則ち時に随はざる能はず」(「漫筆一則」一八五〇〈嘉永三〉)と書き残したように、松陰の意識は、たんに防長二国を守る兵学から、日本全体を西洋に対し独立たらしめる経世論へと大きく転回していき、ついに西洋諸国と日本とを対等の存在として承認するに至ったのである。

このような自他認識の転回こそが、ペリー・プチャーチンを「近世海外」の「三傑」(『幽囚録』一八五四〈安政元〉)の二人と評した江戸の人士に強い批判を加え、これら艦隊の背後にある国家こそが問題であるという冷静な認識を松陰にもたらしたのであった。松陰が白旗書簡を「遂に信ずる」ことができなかった背景には、「国際社会」を国家間の対等という秩序のうちにとらえようとする、このような認識があったのだと言えよう。

ペリー艦隊密航による投獄後の松陰は、羅森(ペリー艦隊漢文通訳)が著わした太平天国の乱の記録(通称『満清紀事』)を翻訳した『清国咸豊乱記』(一八五五〈安政二〉)において、白旗の意味をその原文よりもくわしく叙述している。またそれを「和平の信」と表現していたことは、白旗自体を屈辱的な降伏の象徴と見做していなかったことを示している。この『清国咸豊乱記』は、たんなる漢文の書下しではなく、和文で著された日本人に向けた書物であり、ここで松陰があえて白旗の叙述を増補した背景には、将来西洋列強との交戦の際、平和状態の恢復の意志表明であるこの白旗の存在を日本人に対して明示しておく必要があると判断したからではなかったろうか。

兵学師範時代、白旗を「外夷の法」として拒否していた松陰は、この「外夷の法」をそれゆえに拒否するのではなく、むしろそれを「国際社会」において必要な限りで承認するに至ったのである。このような松陰の思想的転回は、「国力強勢にて外夷を駕馭するに余りあらば、居交易も亦可なり、況や出交易をや」(「墨使申立の趣論駁条件」一八五八〈安政五〉)というように、貿易すらも許容する態度へとつながっていったのであった。

みずからの主体性が確保されていれば、たとえ開港・交易を行っても、清国のような無秩序は生じないという松陰のこのような認識は、白旗に代表される「外夷の法」をも主体的に受け入れようとする態度の一つの現れであったと言えよう。

レジュメ(誤字等があります)
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2003年06月15日 (日)

今日のお題:口頭発表(1999?2003年)

「幕末期における忠誠の転回――吉田松陰を中心に」
(明治維新史学会例会、1999年1月30日)

「吉田松陰と後期水戸学の距離――「安政三年八月」をめぐって」
(日本思想史学会2000年度大会、2000年10月21日)

「幕末維新期における対外観の転回――吉田松陰を中心に」
(日本文芸研究会2001年度大会、2001年6月10日)

「人文系データベース利用の諸問題――吉田松陰『野山獄読書記』のデータベース化から」
(東北史学会2001年度大会、2001年10月7日)

「吉田松陰における天皇観――藩主と天皇をめぐって」
(日本思想史学会2001年度大会、2001年10月20日)

「幕末志士における読書の一形態――吉田松陰『野山獄読書記』から見る」
(明治維新史学会例会、2002年3月30日)

「『講孟余話』再考」
(日本文芸研究会2002年度大会、2002年6月9日)

「吉田松陰の神勅観」
(2002年日本思想史夏季セミナー、2002年8月17日)

「幕末期における普遍観念の相剋――吉田松陰を中心に」
(日本思想史学会2002年度大会、2002年10月20日)

「「他者」としてのアジア――吉田松陰を中心に」
(明治維新史学会2002年秋季大会、2002年11月20日)

「『新論』受容の諸形態」
(日本文芸研究会2003年度大会、2003年6月15日)

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