2017年03月06日 (月)

今日のお題:桐原健真「「漢学」と日本近代:三島中洲と渋沢栄一」、二松學舍大学創立140周年記念シンポジウム「「論語」と「算盤」が出会う東アジアの近代 渋沢栄一と三島中洲」、千代田区・二松學舍大学、2017年01月21日

見城悌治ほか編『渋沢栄一は漢学とどう関わったか:「論語と算盤」が出会う東アジアの近代』(ミネルヴァ書房、2017年02月)の刊行記念でもあるかと。

渋沢栄一は漢学とどう関わったか - ミネルヴァ書房
http://www.minervashobo.co.jp/book/b253533.html

当日の様子は、以下からどうぞ。

二松學舍大学創立140周年記念事業 二松學舍大学私立大学戦略的研究基盤形成支援事業主催シンポジウム「「論語」と「算盤」が出会う東アジアの近代 渋沢栄一と三島中洲」
http://www.nishogakusha-u.ac.jp/eastasia/ea_2016symposium02.html

2016年11月08日 (火)

今日のお題:桐原健真「モノとしての書籍」、パネルセッション「近世日本における出版文化の諸相」、日本思想史学会2016年度大会、2016年10月30日、吹田市・関西大学

本パネルセッションは、大会委員が組織したシンポジウム連動企画である。近代に接続する近世の出版文化について三人のパネリストとともに議論していきたい(司会・伊藤聡〈茨城大学〉)。

パネリスト
・引野亨輔(千葉大学)「経蔵のなかの正統と異端」(要旨略)
・吉川裕(東北大学専門研究員)「徂徠学派における詩文集刊行とその意義」(要旨略)
・桐原健真(金城学院大学)「モノとしての書籍」
要旨「後期水戸学の大成者」(植手通有)とされる会沢正志斎に文集や全集等が『会沢正志斎文稿』(2002)以外に見られないことを意外と感じた者は少なくないだろう。幽谷・東湖父子に全集があることを考えれば、その念は更に強くなる。だが会沢の文業を遺す試みが皆無だったわけではなく、その全容を世に問う動きは彼の存命中からあったが、その主著を『新論』に求める理解は今なお強い。しかし『新論』は始めから「尊攘」や「国体」と結びつけて受容されたのではない。本発表は『新論』を手がかりに幕末におけるモノとしての書物の社会的存在を問うものである。

とまぁ、ぶち上げたのですが、少々不完全燃焼でございます。

一番の引っかかりは、会沢正志斎の『退食間話』を誰が出したのかという問題でして、こちらの扉には「御蔵板」と書いてありますので、瀬谷義彦先生などは、「その版本は弘道館蔵版の一冊だけである」(瀬谷義彦「退食間話解説」、日本思想大系53『水戸学』岩波書店、1973年)と仰っているのですが、どうもそれにしても変な版だなぁと想い続けていたわけですが、やっぱりよく分かりません。

さらに、見返しには、こんな印が押されてございます。で、これが何と書いてあるのかが分かりません。とりあえず二文字目以降が「條殿御藏板」というのは確定して宜しいのですが、これが何條なのかが分かりません。

篆刻の専門の方に伺いましても、

「日本の篆刻はいい加減だからねぇ」

と、なんとも恐縮なことを仰るので、非常に困って、発表当日に至り、恥を忍んで、

「お分かりになる方、是非ご教示を賜りたく」

と申しましたが、結局、どなたにもご教示戴けず終わってしまった次第。

いろいろ検討はしてみたのですが、おそらくは「五條殿御藏板」だろうというのが、現在の結論でございます。

五条家と申しますのは、摂家でも何でもございませんで、菅原氏の庶流でございまして、所謂半家であります。おそらくここら辺の公家あたりからなんらかのルートで版行されたのだろうと思うのですが、正直、江戸のことばかり目が行っており、京都での出版事情というものに理解がなく、どういうことなんじゃろ、と謎が謎を呼んで、次回に続くという次第でございます。

御蔵板だと検閲とかそこら辺、どういう扱いになったんでしょうねぇ。まったくもってそういう実社会の次元のことは不案内でございます。昔も今もですが。

2016年06月19日 (日)

今日のお題:桐原健真「The Birth of a Myth: Civil War and Sacrifice in Early Meiji Japan(神話の誕生:初期明治日本における内戦と犠牲)」生成人類学会会議第10回夏季国際学会(The Generative Anthropology Society and Conference)、Guest Presentations by the Kinjo Occult Research Group、名古屋市・金城学院大学、2016年06月19日

It is often said that the modernization of Japan was a smooth and peaceful transition. However, in fact, the Meiji restoration did not prove to be successful without sparking a huge civil war, the likes of which Japan had not seen in four hundred years. This was called the Boshin Civil War (1868 – 1869), fought between the pro-Shogunate army and the New-government army. After this civil war, with a front extending over the eastern part of Japan, the New-government enshrined more than three thousand fallen soldiers as the tutelary deities of “their own nation” in Tokyo Shōkonsha (the shrine to summon souls), which is now the controversial Yasukuni Shrine. It can be said that they were sacrifices to establish the new régime of the so called "Meiji State." However, there was a stringent rule to sort the souls of dead soldiers, since, as with Valhalla, not all fallen soldiers were enshrined in this shrine. This was the birth of the myth of modern Japan. This paper will describe the construction of this myth by throwing light on the relation between enshrining and using dead soldiers as sacrifices.

しばしば日本の近代化は円滑にして平和裏な進行であったといわれる。しかしながら、実際には、明治維新は、それまでの400年間に日本が目の当たりにすることがなかった大規模な内戦無しに成功をもたらすことができなかった。この内戦は、旧幕軍と新政府軍とによる戊辰戦争(1868-1869)と言われる。戦線を東日本全域に展開したこの内戦の後に、新政府は三千以上の戦没者を「彼ら自身の国」を護る神として東京招魂社(魂を呼び戻すための東京にある神社。現在物議を醸している靖国神社)に祀った。彼らを「明治国家」と呼ばれる新体制を樹立するための犠牲であったと言ってもよい。しかし、すべての戦没者がこのヴァルハラのような神社に祀られたわけではないように、そこには戦死者の魂を選別する厳しい論理が存在していた。それは、近代日本における神話の誕生であった。本発表は、招魂と犠牲としての戦死者との関係に光を当てることによって、この神話の構造を明らかにするものである。

2016年05月07日 (土)

今日のお題:桐原健真「帰一協会の思想史的意義とその可能性:渋沢栄一を軸として」、パネル6「帰一協会と渋沢栄一」、東アジア文化交渉学会・第8回年次大会、2016年5月7日、吹田市・関西大学

すっかり忘れていましたが、バタバタと発表をしてきたのでした。

正直、自分が何をやっているのかよく分からない日々が続いておりますが、とにかく生きておりますので、どうぞ今後とも生温かくお見守り下さいますよう。

で、要旨でございます。
「階級、国民、人種、宗教の帰一」を合言葉とした帰一協会は、その広範な参加者を得ながらも、必ずしも大きな成果を残さなかったようにみえる。

たしかに、協会の経済的支柱であった渋沢栄一の死去や、思想的中心としての姉崎正治の東大退職などがあった1930年代には目立った活動がみられず、「姉崎博士の帰一協会」は「失敗」(『読売新聞』1936年3月20日朝刊、5頁)であったとすら言われた。

しかしこの時期、一方では谷口雅春や伊藤証信らによる「万教帰一」や「万教共和」の運動があり、「帰一」という志向自体が社会から失われたわけではない。

本報告は、渋沢や姉崎による諸教説の「帰一」という試みを再検討し、近代日本の宗教空間における一つの「対話」であった協会の思想史的意義を明らかにすることを目指すものである。このことは、今日、なおいっそうその可能性が問われている宗教間対話の検討に資するものとなろう。

要旨ですので、実際の発表とはいたく異なりますが、なんとも恐縮です。

2016年02月10日 (水)

今日のお題:番組出演『英雄たちの選択:知りすぎた男たちの挑戦 蛮社の獄 渡辺崋山と高野長英の決断」』NHK BS プレミアム、2016年01月28日(木)20:00放送

えっと、そろそろ、再放送も終ったことでしょうから、時効ということで、忘れないうちに書いておきましょう。業績一覧にはとにかく何でも書いておかないといけませんから。

英雄たちの選択「知りすぎた男たちの挑戦 蛮社の獄 渡辺崋山と高野長英の決断」 - NHK
http://www4.nhk.or.jp/heroes/x/2016-01-28/10/21352/2473060/

というのに出てきました。

英雄たちの選択 「知りすぎた男たちの挑戦 蛮社の獄 渡辺崋山と高野長英の決断」

出演 : 磯田道史 、岩下哲典 、宮崎哲弥 、平野啓一郎 、桐原健真

権力にもの申すことが命の問題に直結した江戸時代。幕府の政策に危機感を抱き、あえて意見書をしたためた二人の男がいた。渡辺崋山と高野長英。二人は当時、世界を最も知っていた日本人とも言われる。西洋の学問を通して世界情勢に精通、いわゆる鎖国を貫こうとする幕府の方針に異を唱えた。そうした動きに対し、幕府は弾圧で臨む。世に言う蛮社の獄。死の危険に直面しながら、二人は何を訴え、どんな葛藤を抱えていたのだろうか。

2016年01月28日(木)20:00放送 NHK BS プレミアム


端っこの方で、コソコソしてましたよ。

「なんでオマエが崋山なんだ」というツッコミはごもっともなのですが、

「それはやはり、愛知の偉人ですもの。愛知の人間が出て当然じゃないですか」

と、名古屋に来て3年と経たない男がのたもうてますよ。

っていうか、平野さんのほうがよっぽど愛知にご縁があるわけで。

結局、こういうつながりなわけで、なんでも書いてみるもんだなぁと思ったりする次第。

思海 | 桐原健真「渡辺崋山(1793-1841)・高野長英(1804-50):日本への目覚め」『環・特集:今、「国家」を問う』57号、2014年4月、271-274頁

崋山座像.jpg
(崋山座像:田原市池ノ原公園内・渡辺崋山池ノ原幽居跡)

ピンでしゃべったことはあるのですが、討論形式の番組は初めてで、なんとも慚愧の念で一杯でございます。今回NHKに行って一番よかったと思えたのは、メイクさんに「肌キレイですね」と言われたことでしょうか。

2015年09月11日 (金)

今日のお題:桐原健真「阪谷朗廬と備中の漢学、渋沢との関係」、公益財団法人渋沢栄一記念財団主催「「備中の漢学」を考えるシンポジウム」、井原市・興譲館高等学校、2015年9月11日

「備中の漢学」を考えるシンポジウム
日程 2015/9/10〜11
開催地 岡山県/倉敷公民館(倉敷市)、興譲館高等学校校友ホール(井原市)
幕末から明治にかけて、備中(現在の岡山県西部)には、著名な漢学者が輩出し自らが活躍するとともに多方面の指導者に大きな影響を及ぼしました。二つのシンポジウムでは、備中出身の三島中洲、阪谷朗廬と近代日本社会の形成に大きな足跡を残した渋沢栄一との関係に焦点を当て、近世から近代への激動期における東アジアの中の日本という視点から備中の漢学の果たした役割を浮き彫りにし、その現代的意味を考えます。

日 時 2015年9月11日(金)午後1時30分〜4時30分
主 催 公益財団法人渋沢栄一記念財団
共 催 興譲館高等学校、二松学舎大学、備中倉敷学
会 場 興譲館高等学校校友ホール
参加費 無料 (事前申込不要)

演 題 備中の漢学―阪谷朗廬、三島中洲、渋沢栄一
パネリスト
桐原健真(金城学院大学)―阪谷朗廬と備中の漢学、渋沢との関係
町泉寿郎(二松学舎大学)―三島中洲、渋沢栄一、二松学舎の関係
見城悌治(千葉大学)―渋沢栄一と漢学、道徳経済合一説
于臣(横浜国立大学)―中国から見た備中の漢学
丁世絃(関西大学大学院―朝鮮から見た備中の漢学
司 会 木村昌人(公益財団法人渋沢栄一記念財団)

「備中の漢学」を考えるシンポジウム|シンポジウム|企画・セミナー等情報|研究センター|公益財団法人 渋沢栄一記念財団
http://www.shibusawa.or.jp/research/project/symposium/post2015_07_29_71119.html

2015年06月04日 (木)

今日のお題:桐原健真「吉田松陰の視点―攘夷とは何か―」(間部詮勝シンポジウム、鯖江市・鯖江市文化の館多目的ホール、2015年05月23日〜2015年05月24日)

福井県鯖江市の間部詮勝シンポジウムに登壇して参りました。

福井県鯖江市>間部詮勝シンポジウム
http://www.city.sabae.fukui.jp/pageview.html?id=16275

間部詮勝の暗殺計画を立てた人間についてやってる当方を、よくもまぁお呼び下さったということで、恐縮の至り。

とはもうせ、実際に暗殺された井伊直弼とはちがって、未遂も未遂、計画を立てただけですので、まだ良いのかも知れません。

でも、あの人、
クーボール三門、百目玉筒五門、三貫目鉄空弾二十、百目鉄玉百、合薬五貫目貸下げの手段の事。
(「前田孫右衛門宛」1858(安政5)年11月06日)

なんて言っておりますんで、もはやこれは暗殺とかいう以前の武装蜂起と言っても宜しいかと。

そもそも薩摩の島津斉彬が、2,000人だか3,000人で卒兵上京しようとか言っていたのに比べると、随分と可愛い規模ではありますが、これが瀬戸内周りか日本海周りか分かりませんが、往き往きて進軍していたら、それはそれで面白かったかと。

どうも、松陰の所には、薩摩藩の上洛計画やら、伊井大老暗殺やら虚実入り交じった情報が来ていたようでして、彼自身、この流れに乗り遅れてはいけないと思っていたようでございます
御当家に於ては他藩の誘ふ迄も之れなく、勤王の御志確然たる御事に候へば、此の度〔上京〕の一挙に付き、下より御願申出づるには及ばず、謹んで御指揮待ち然るべき事に御座候へども、私共時事憤慨黙止し難く候間、連名の人数早々上京仕り、間部下総守・内藤豊後守打果し、御当家勤王の魁仕り、天下の諸藩に後れず、江家の義名末代に輝かし候様仕り度く存じ奉り候。此の段御許容を遂げられ下され候様願ひ上げ奉り候。以上。
(「周布政之助宛」1858(安政5)年11月06日)

「鶏口となるも牛後となるなかれ」という矜持なんでしょうか、ある種のセクト主義とも申せます。

などと書いては見ましたが、実際の発表ではそんなことはまったくお話ししておりませんで、そもそも求められたお題が「攘夷概念についての考察」なわけでして、これまたなかなか抽象度の高いお話しでございます。

とはいえ、鯖江にまで行きながら、間部の話がまるで出てこないとなると、少々申し訳ないので、一寸だけ話をしましたですよ。

とりあえず、改めて考えてみると「尊王攘夷」って変なことばだなぁということをお話しいたしました。そもそも「尊王攘夷」って、主語を考えると文法的に問題があるんじゃないかと。「尊王」は臣下の必須行為であるにしても、「攘夷」というのは明らかに主君の専権事項なわけで、臣下一般が手を出すべきことではないのです。「尊王」という道徳的信条が、「攘夷」という軍事的主張と結び付いたとき、政治的運動に転化していくというのが、「尊王攘夷」ということばの不思議というか大跳躍なところなのでございます。

2015年05月11日 (月)

今日のお題:桐原健真「渋沢栄一と近代論語の世界」(足柄上郡開成町・開成町福祉会館、東アジア文化交渉学会第7回年次大会、2015年05月09日)

渋沢栄一における儒学思想、とりわけその『論語』の理解について議論される際、しばしば二松学舎から刊行された『論語講義』(全2巻、1925年)が用いられてきた。しかし近年では、同書が実際には筆述者である二松学舎教授の尾立維考による意図的な編集が加えられた、いわば編者自身の著述に近いものであることが、笹倉一広氏の書誌学的検討から指摘されている。この点で、『論語講義』をもって渋沢思想を語ることが、学問的にきわめて危険であることは明かであろう。しかし、『論語』全編を講釈する『論語講義』が、実業家として知られる渋沢の著作として世に問われたことは、これ以降の日本社会における『論語』への認識を大きく規定するものともなったと考えられる。本発表は、同時代の非アカデミズムの分野における『論語』言説を概観することを通して、『論語講義』の文化史的意味を問うことを目的とするものである。
困ったことに、またもや風邪引きでの参加でございます。かなり聞き取りにくい声であったかと申し訳なく存じます。

2014年02月22日 (土)

今日のお題:桐原健真「「鎖国日本」言説と永久開国論:「第三の開国」をめぐって」(千代田区・都道府県会館、日本と東アジアの未来を考える委員会、2014年02月20日)

以前からの懸案であった1980年代以降の開国言説論をやってみました。

1980年代を「上から目線」の「譲歩的」な「開国論」と捉えてみたのですが、むしろ、「アメリカしか友達がいない必死感」の方が強かったんではないかというご指摘を戴き、確かにそうだったよなぁと、自分自身の記憶を思い出して見た次第。

まぁ、あの頃は、ホントにアメリカへのコンプレックスがエライ事になっていた時期ですからねぇ。

確認できたのは、「鎖国―開国」図式自体に敏感になるのは、当方の世代までかもしれないということで、学生さんには響かないかもしれません。でも、今、日本の社会を上の方で動かしているのは、敏感過ぎる時代を生きた世代なので、問題は当分引き継がれることになろうかと。


2013年11月16日 (土)

今日のお題:桐原健真「連続と断絶:水戸学と維新のあいだ」(人文学部地域史シンポジウム「明治維新と茨城の歴史」2013年11月16日、水戸市・茨城大学)

ポスター 『新論』
茨城大学人文学部地域史シンポジウム「明治維新と茨城の歴史」でトリを勤めて参りました。

『新論』を維新の経典にするのはやめようといういつもの話とともに、当方が登壇するまでにお話しいただいた方々の中身をすくい上げながら盛り込むという芸に挑戦。次はもっとうまくやりたいところではあります。

いろんなところで書き散らかしておりますが、今日の感覚からすると、戦前における会沢評価の低さはどうにも理解できないところがございます。すなわち戦前の水戸学研究は、徳川光圀を一つ目のヤマとすると、斉昭と東湖の君臣ペアが二つ目のヤマとなって位置づけられる訳であります。これに対して、戦後は、まぁ、会沢一極集中と言っても宜しいのではないかというくらいに、会沢一辺倒になります。

戦前において会沢の評判が芳しくなかった理由としては、やはり、その晩年の言動にあったと申せます。会沢開国論と呼ばれる「時務策」ですとか、戊午密勅の返納論ですとか、そういったことが会沢をしてその評価を低くならしめたわけです。個人的見解としては、彼はかなり本気で儒学を信じていた人間で、学者としては立派なもんだと思うのですけど、なかなかそこら辺に光が当たらないというか、当てられないというのが少々不満でございます。

嗚嗟、ちなみに左の『新論』は当方が個人で所有しているものなので、パブリックドメインとして公開します。所蔵印を見ますと、「砂川和義」とありますので、日本古代の法制史で知られる砂川さん(1937〜2006・神戸学院法学部)の蔵書だったのではないかと思われます。経緯は分かりませんが、めぐりめぐるというのはこういうことかなと思ったり思わなかったり。

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