2008年10月19日 (日)

今日のお題:水戸学の世界像――会沢正志斎を中心に(地方史研究協議会2008年度大会〈第59回〉「共通論題 茨城の歴史的環境と地域形成」2008年10月18日?19日、常磐大学)

仙台から水戸は、遠いです。

2008年10月03日 (金)

今日のお題:「歴史学から倫理学へ――日本思想史の試み」(日本倫理学会第59回大会・ワークショップ2「日本思想から倫理学へ」2008年10月3日・筑波大学)

ワークショップというものにはじめて参加しました。

さて、つくばもTXが出来たからかなり楽になりましたが、そうは言っても結構遠いです。

さて、漸々着いたところで出迎えてくれたのがこの看板。

$FILE1

奥まった入り口がなんとも寂寥を感じさせます。たんに夕方だっただけかもしれませんが。

$FILE2

2008年09月21日 (日)

今日のお題:水戸学の世界像――会沢正志斎を中心に

地方史研究協議会第59回大会プレ発表
2008年10月19日に水戸市常磐大学でやります。
http://wwwsoc.nii.ac.jp/chihoshi/taikai.html

2008年08月24日 (日)

今日のお題:「「聖典」を求めて――河口慧海と「日本仏教」」(2008年度日本思想史研究会夏季セミナー「「古典」を考える」、福島県磐梯熱海温泉・金蘭荘花山、2008年8月23日?24日)

本発表は、近代日本における仏教者である河口慧海(1866?1945)の思想を、その二度の入蔵(チベット行)における相違をふまえつつ論ずるものである。河口は、日本人としてはじめてチベットに入った人物として知られ、その研究もチベット探検家としての側面が中心であった。

19世紀における「文明国」たちは、地図上の「空白」を塗りつぶすために、「野蛮・未開」の地を踏破することにしのぎを削っていた。それは一方では帝国主義の運動のしからしむるところであったが、他方で未知なる対象を既知としようとする「科学的」な動機に起因するものでもあった。しかし河口がはじめて入蔵した動機に存在していたのは、そのような「文明」的背景だけではない。むしろ彼には、真なる「釈尊の金口」を希求する心こそがあったのである。

「大乗非仏説論」に対して終生強い反駁を加え続け、梵蔵経典の中に真実の教え(「仏説」)を見出そうとした河口は、その「原理主義」(奥山直司)的な経典解釈ゆえに、ついに「日本仏教非仏説」にまで到達する。本発表では、「唯一の大乗国」という日本仏教におけるナショナリズム言説と仏教の近代化との狭間の中で彼が逢着した地平を明らかにしたい。このことは、近代における「聖典性」を有したテキストの存在形態の考察に資するものともなろう。

参考文献

河口慧海『チベット旅行記』講談社学術文庫1978年(1904年刊の復刻)
河口慧海『第2回チベット旅行記』講談社学術文庫1981年(1966年刊の復刻)
河口慧海/奥山直司編『河口慧海日記――ヒマラヤ・チベットの旅』講談社学術文庫2007年
高山龍三編著『展望河口慧海論』法蔵館、2002年
奥山直司『評伝河口慧海』中央公論新社、2003年

2007年12月08日 (土)

今日のお題:歴史とわたしたち(ステップアップ開放講座「よく生きること・よく考えること」2007年12月8日、東北大学)

PowerPointです。

2007年12月02日 (日)

今日のお題:歴史を「読む」ということ(ステップアップ開放講座「よく生きること・よく考えること」2007年12月2日、東北大学)

PowerPointです。

2007年08月23日 (木)

今日のお題:「漢土人の翹楚」――魏源と吉田松陰(「19世紀東アジアにおける国際秩序観の比較研究」国際高等研究所・2007年8月23日)

PowerPointです。

2006年11月26日 (日)

今日のお題:The Miniature of a New World As a Model of Modernization(張謇研究センター主催「第4回 張謇国際学術研討会」、2006年11月25?28日、中華人民共和国・南通市文峰飯店)

PowerPointです。

2006年11月18日 (土)

今日のお題:水戸学の時代精神――あらたな会沢正志斎像の模索(茨城大学人文学部主催「地域連携シンポジウム 茨城の時代精神」、2006年11月18日、水戸市・茨城大学)

PowerPointです。

2006年09月18日 (月)

今日のお題:「魂を留める――吉田松陰の場合」(日本宗教学会2006年度大会「パネル:どう死ぬか――現場から考える「宗教」研究」、仙台・東北大学、2006年09月18日)

安政の大獄の渦中の一八五九(安政六)年五月(以下断りのない限り日付は同年を指す)、吉田松陰(一八三〇〈天保元〉?一八五九〈安政六〉)は江戸への召還命令を受けた。この報を伝え聞いた弟子の入江子遠は、「先生の死所を知ざるなり」(「入江杉蔵より」同月一四・五日頃)と書き送り、師に死すべきことを勧めたが、松陰は「至誠にして動かざる者は未だ之れ有らざるなり」の語をもって拒絶したことはよく知られている事実である。

たびかさなる過激な言動により投獄され、また行動方針の齟齬からその友人や弟子達と「絶交」していた当時の松陰にとって、この入江子遠はその弟とともに最後まで彼に付き従い、彼同様投獄されるに至った「知己」にほかならなかった。その「知己」が、幕府の法庭におもむこうとする松陰に死を求めるというのは異常な状況であると言ってよい。

もとより入江のこのことばは、自分たち兄弟をこの悲惨な状況に追い込んだ師にその責任を求めるものではない。いかなる結末に終わるやも知れぬ江戸行の前に、師がその生をみずから終えることでその身を潔(いさぎよ)くすべきだ、という「有終の美」的立場から発せられたものであった。ここからは松陰が生を偸(ぬす)まず有終の美を飾ることで、残された同志たちに起こる悲憤慷慨の情が、その尊攘運動に新展開をもたらすであろうという「先覚後起の思想」(高橋文博『吉田松陰』清水書院一九九八)を見ることができる。

この「先覚後起」の立場は、松陰がかねてよりの主張であり(『講孟余話』一八五七〈安政四〉年成立参照)、入江が行方の見えぬ江戸召還をひかえた松陰に死を求めたことは、師の従来の主張に沿ったものでもあった。事実松陰自身も、投獄直後には、「吾が輩皆に先駆て死んで見せたら観感して起るものあらん」(「某宛」一月一一日)と書き送り、「吾が知己なれば死を賜ふ事の周旋をして下され度し」(「岡部富太郎宛カ」四月九日)と、あくまでみずからの死を契機とした「後起」を切望していた。しかし、「賜死周旋」を請うたわずか三日後、彼は突然として死を拒否するに至る。

すなわち「吾が放囚し去らるるを待つて、大事乃ち籌(はか)るべし。丈夫は身なきを患(うれ)ふ、命を惜しむも君尤(とが)むることなかれ。」(「同囚の歌の後にして和作に示す」四月一二日)と詠った松陰は、生きながらえることにこそその希望を見出したのであった。松陰が入江の求めた死を拒絶した背景には、このような彼の死生観における転回があった。

 本発表はこの松陰における劇的な転回の軌跡を、彼の「天壌無窮の神勅」理解および中国明代の思想家である李卓吾との出会いから論じることを目的とするものである。

 松陰にとって「神勅」は、「日本は未だ亡びず、日本未だ亡びざれば正気重ねて発生の時は必ずある」(「堀江克之助宛」一〇月一一日)ことを保証する「神聖な約束」であった。したがってこれを真実と信じることは、同時にみずからの尊攘運動の成就を信じることであり、ひいてはみずからの志が永遠に継承されることを意味した。この志の永遠性が、みずからの生をその手で終らせることで「後起」をうながすといったそれまでの「死に急いだ」態度を転換させた一つの理由であった。

また、李卓吾との出会いは、死を生の対立概念としてではなく、あくまで生の一様態あるいは結果の一つととらえ、死を目的として生きるのではなく、「四時〔四季〕の順環」(『留魂録』一〇月二六日)のような全体としての生を生きる生のありかたを松陰に模索させることとなったのである。

<< 4/5 >>