2017年04月21日 (金)

今日のお題:桐原健真「「アジア」はどこにあるのか」、ユーラシア研究センター情報誌『EURO-NARASIA Q』7号、2017年3月、40-41頁

ご厄介になっている奈良県大のユーラシア研究センターでの小文。

『EURO-NARASIA Q』No07.jpg

アジアは日本の自己認識のどこら辺にあるのかなぁという割とよくあるお話ですが、幕末ではこれを拒否する知識人が多かったのはなかなか面白いところではございます。
しかしながら、この「アジア」ということばは、本来、この地域の人々がみずから称したものではない。すなわち、他者――端的に言えばヨーロッパ――によって与えられたものであった。この意味で「アジア」という自己認識は、それ以外の他者によってみずからが「アジア」として規定されることではじめて成立するものであったと言える。それゆえ幕末の日本知識人のなかには、「アジア」が、ヨーロッパによるレッテルであることを理由にその使用を拒否するものすら存在した。たとえば「幕末志士のバイブル」と呼ばれる『新論』(1825)の著者である会沢正志斎(1782〜1863)は、次のように記している。

亜細亜(アジア)・亜弗利加(アフリカ)・欧羅巴(ヨーロッパ)と曰(い)ふものは、西夷の私呼する所にして、宇内(うだい)の公名(こうめい)に非ず、且つ天朝の命ずる所の名に非ず、故に今は言はず。(形勢篇、原漢文)

「アジア」は、西洋諸国が勝手に付けたものであり、我々の自称ではないと断ずる会沢にとって、「アジア」の呼称を受け入れることは、地球規模の世界(「宇内」)を、客体として恣意的に分節化する西洋の正当性を承認することをも意味したであろう。「アジア」ということばの出自を忘れることはなかった幕末知識人たちにおいて、「アジア」は、いまだその自己認識のうちに編入されていなかったのである。もとより幕末維新以降、「アジア」は日本においても、次第に「宇内の公名」となっていく。西洋という他者によって与えられたレッテルを自己のものとして受け入れること――それが日本の近代であった。


ユーラシア研究センター情報誌「EURO-NARASIA Q」第7号のご案内 | 奈良県立大学
https://www.narapu.ac.jp/contents_detail.php?co=kak&frmId=359

当方の文章は置いておいて、結構豪華な本なのは確かなので、ぜひ機会がありましたらお手にとって戴ければ幸いこの上なく。

2016年07月17日 (日)

今日のお題:桐原健真「書評:米原謙著『国体論はなぜ生まれたか : 明治国家の知の地形図』」『日本歴史』2016年06号、817号、107-109頁

目次
序 章 国体論という磁場
第1章 「国体」の発見
第2章 神々の欲望と秩序――幕末国学の国体論
第3章 「地球上絶無稀有ノ国体」を護持するために――岩倉具視の構想
第4章 自由民権運動と明治初期の言論空間
第5章 歴史認識をめぐる抗争――明治二〇年代の国体論
第6章 裕仁皇太子の台湾行啓――「一視同仁」の演出

近世から近代を越えた議論は大変だなぁということを改めて思うわけでございます。
 したがって、その筆はおのずから長いスパンを覆うこととなる。事実、本書に登場する人物や事件は、江戸中期の儒学者である荻生徂徠から摂政宮裕仁の台湾行啓(一九二三)にまで及ぶ。

 こうした試みは、極めて野心的なものであり、筆者のような学識を俟って初めて可能なものであると言えよう。なぜならば、日本歴史の叙述において、近世と近代の間には、あまりにも大きな文法(ディシプリン)の相違が横たわっているからである。

 かつて福沢諭吉は、維新後のみずからを省みて、「一身にして二生を経るが如く一人にして両身あるが如し」(「文明論之概略緒言」一八七五)と喝破した。近世と近代という時代は、政治的・社会的環境はもとより、文字通り文法も大きく異なる。こうした両者を架橋した叙述は、タコツボのなかでの語りを専らとするものには困難な作業であると言ってよい。

2016年03月11日 (金)

今日のお題:【御案内】「日本儒林叢書全文データベース」(Jurin DB)「日本思想史文献データベース」(DoJIH)

 拝啓
漸々春めいて参りました今日この頃、いかがお過ごしでしょうか。当委員会では、本年度も、幸いに「日本儒林叢書全文データベース」(15HP8003)および「日本思想史文献データベース」(15HP8004)と科学研究費(研究成果公開促進費:データベース)を取得することが叶い、データベースの増補をして参りました。来年度も引き続き事業を努めて参りたく存じます。
委員長であります当方が、データベースサーバをお借りしております東北大学から離れたこともあり、事業の進捗が少しく緩やかになってきてはおりますが、倦まず弛まず継続して行く所存ですので、今後とも皆様の温かい御支援のほどをお願い申し上げる次第でございます。 敬具

という内容の文書とともにポスターを関係各位にお送り致しました。これだけの宣伝を打っておきながら、来年度は科研に落ちて継続できませんでしたというオチも可能性としてはあるというのが恐ろしいところではございます。

さいわいに儒林叢書DBの方は、その筋の方には好評のようでで、有難く存じております。「日本思想史文献データベース」については、つらつら考えますに、前進である「日本思想史学関係研究文献要目」から考えますと、本年で50周年という記念すべきときにあたる訳でして、どうぞ今後とも御贔屓のほどをお願い申し上げる次第でございます。

儒林叢書ポスター文献目録

2015年12月06日 (日)

今日のお題:桐原健真「「公論」が「公論」であるために:天下後世自づから公論有り」、『三和新聞』659号、2015年11月10日、4頁

『三和新聞』と申しますのは、三和テッキさんのなかにある三和新聞社さんが出している、業界機関紙でございます。なんとまぁ、場違いと申しますか、当方の兄にでも書かせたらしいんではないかという感じではありますが、当時、国会とその周辺がとても賑わっていたのを背景に書いてみました。
 今からちょうど百年前、与謝野晶子は「駄獣の群」と題して、次のように詠(うた)っている。

「此処(ここ)に在る者は 民衆を代表せずして 私党を樹て……公論の代りに 私語と怒号と罵声とを交換す」

 国会では「公論」ではなく「私論」が叫ばれるに過ぎないのだと晶子は批判する。こうした「公論」の「置き去り」は、先の国会での議論を思うに、今日でもそう大きく変わらないようであり、泉下の晶子を憶えずにはいられない……
だれがどんな絶叫をしたかについてはみなさまのご記憶次第というところで。

2015年02月18日 (水)

今日のお題:桐原健真「大局を見通し、日本を守る…全国周遊から得たもの」、『歴史街道』2015年03月号、2015年、86〜91頁

なんで松陰はこんなに有名になれたのかなぁということを、久しく考えております。

正直な話、象山やら小楠やらに比べると松陰の思想家としての深みというのは、ややもの足りないと申さざるを得ません。まぁ、30歳で無くなってますんでそこは無い物ねだりとも申せます。
佐久間象山「省諐録」1854年
予年二十以後は、乃ち匹夫の一国に繋るあるを知る。三十以後は、乃ち天下に繋るあるを知る。四十以後は、乃ち五世界に繋るあるを知る。

という域に達するには、やはり40は越えないといけないのですな。と、先日、ついに40になった男が言いますよ。

で、話を元に戻しますと、松陰が有名になった理由についての単純な答えとしては、

「弟子が偉くなった」

ということが考えられます。

で、この路線で、松陰の教育者としての資質であるとかが説かれたりするわけですが、さて、果たしてそうなのかなぁと思ったりもします。

それよりも、国内外の情勢を体系化して把握して見せたというのが、大きいのではないかと考えています。つまり、「帝国日本」という西洋諸国にすら承認された自己認識を徹底的に考え抜いた結果、日本の元首は他ならぬ皇帝としての天皇であることに行き着き、この原則をもって、日本の独立(攘夷)と同時に政令一途(尊王)という二つの位相の異なるイデオロギーを、1850年代において結合させることができたというのが、松陰思想の特筆すべき点なんだろうと思う次第。

国内主権と対外主権は唯一者において統一されなければならないという思考は、1860年代には一般化するわけでして、
「薩土盟約」1867年
方今皇国の務め、国体・制度を糺正し、万国に臨て恥ぢず、是れ第一義とす。其の要、王政復古、宇内の形勢を参酌し、天下後世に到て猶を其の遺憾なきの大条理を以て処せん。国に二帝なく家に二主なし。政権一君に帰す、是れ其の大条理。我が皇家、綿々一系、万古不易、然るに古郡県の政変じて、今封建の世(カ)と為る、大政遂に幕府に帰す。上皇帝在るを知らず。是れを地球上に考するに、其の国体・制度、茲くの如き者あらん歟。然らば則ち、制度一新、政権朝に帰し、諸侯会議・人民共和、後ち庶幾以て万国に臨て恥ぢず。是こを以て初て我が皇国の国体、特立するものと云ふべし。

なんてのは、一つの終着点なのかなぁと。しかし、「大政委任なんてのは、世界に恥じたる政体である」なんてのは面白いですな。

2015年02月16日 (月)

今日のお題:『河北新報』の「新書選書」で河野有理先生に拙著をご紹介戴きました

『河北新報』(2015年02月16日朝刊)の「新書選書」で、河野有理先生に、拙著をご紹介戴きました。

というか、『南日本新聞』にも2月1日に同じ記事が載ったようですが、こういうのは、地方紙によくある共同通信による配信記事なんでしょうな。

とはいえ、東北の雄である『河北新報』に掲載されたことは、なんとも感慨無量と申しますか、故郷に錦を飾った感が無いわけでもなく、まことにうれしい限りです。

しかし、フーテンの寅さんから吉田寅次郎に飛ぶ筆法は、見習いたいところでございます。なんか夢想したことはありましたが、なるほどそういうシークエンスなのねって感じです。

2015年02月15日 (日)

今日のお題:『朝日新聞』新書紹介覧で拙著をご紹介戴きました

2015年02月15日付の『朝日新聞』で、拙著をご紹介いただきました。

吉田松陰 「日本」を発見した思想家 - 著者 桐原健真 | BOOK.asahi.com:朝日新聞社の書評サイト
http://book.asahi.com/book/9784480068071.html

曰く、
当初、長州藩にとどまっていた松陰の視点が、「西洋」を意識し水戸学者と交流する中で、「日本」へと転じる。やがて日本の「国体」を堅持しつつ「五大洲公共の道」という普遍に開くことにたどりつく。彼の「雄略」という志向が、侵略主義というよりは日本の独立性確保と通商活動を目指したものであることも明らかにする。

とまぁ、まことに要領よくまとめて戴き、なんとも感謝の念に堪えません。そうか、あの本はそういう本だったのか>オイ

2015年02月08日 (日)

今日のお題:『毎日新聞』の「今週の本棚」で、磯田道史先生に拙著をご紹介戴きました

『毎日新聞』の「今週の本棚」で、磯田道史に拙著をご紹介戴きました。

今週の本棚:磯田道史・評 『吉田松陰−「日本」を発見した思想家』=桐原健真・著 − 毎日新聞(2015年02月08日)
http://mainichi.jp/graph/2015/02/08/20150208ddm015070003000c/001.html

なんでも、「松陰の「思想遍歴」を追って論じた思想史の本であり、この本を読めば、松陰が、どのようにして松陰になったのかがわかる」そうで、なんとも過分のお言葉をたまわり、まことに難有い限りでございます。

2015年01月29日 (木)

今日のお題:桐原健真「「公論」はどこへ行ったか?:幕末日本における言論空間の所在」、『環』60号、2015年、218〜224頁

『環』60号
『環』60号、藤原書店
幕末維新における「公」の位相を論じてみました。

本来「公」が有していた超越性が失われることによって、近世後期には言論空間の拡大がもたらされました。しかし一方で、それは「公論」の暴走をも導いたのであり、その過激な表現の一つが、桜田門外ノ変であったわけです。

大老暗殺という前代未聞の政治的暴力を敢行した浪士たちは、次のように、自分たちの行為を自己正当化しております。

大老井伊掃部頭(かもんのかみ)所業を洞察致し候に、将軍家御幼少の御砌(おんみぎり)に乗じ、自己の権威を振はん為公論正議を忌み憚り候て、天朝・公辺の御為筋を深く存じ込み候御方々、御親藩を始め、公卿衆・大小名・御旗本に限らず讒誣(ざんぶ)致し、或は退隠、或は禁錮等仰せ付られ候様取り計らい候

ここには井伊大老の罪状がこれでもかとばかりに列挙されております。

そして、これらの罪は、すべて自分自身の権力を維持するために、尊攘志士たちによる「公論・正議」を忌み嫌ったところに起因しているのだと、斬奸状はその正当性を主張するわけです。

梅田雲浜や吉田松陰をはじめとする多くの犠牲者を出した安政の大獄が、志士たちにとっては許し難い暴挙であったことは確かです。

彼らは、「尊攘」の「大義」を「衆議」することは、「公論」であり、また「正議」であると信じておりました。だからこそ、この「正議」を否定する井伊は、自己の権力欲に駆られた「私」であり、その排除は「公」にほかならない――というわけあります。

こういうのを「理論武装」と申しますが、結局は「公論」の暴走とでも言うべき事態であったと申せましょう。

この原稿では、「公」を独占する「公儀」から、「公論」の意味変容を通して、これを奪取し、ついに暴走に至る過程、そしてときに暴走することもあった「公」が、結局は新しい「公権力」としての「皇」に回収されていきながらも、他方で自由民権運動のような草の根的運動に引き継がれていったことを指摘しております。

ちょっと民権運動に夢を見過ぎな気もしますが、公論言説の文脈としては間違ってはいないかと。


2014年05月05日 (月)

今日のお題:桐原健真「渡辺崋山(1793-1841)・高野長英(1804-50):日本への目覚め」『環・特集:今、「国家」を問う』57号、2014年4月、271-274頁・桐原健真「吉田松陰(1830-59)・山鹿素行(1622-85):近世日本の「中国」問題」、藤原書店『環・特集:今、「国家」を問う』57号、2014年4月、279-282頁


藤原書店さんの『環』で「小特集:近世・近代日本の国家観」というのがございまして、なんだかんだで誘われた結果、書いた次第。最初、「5枚で勘弁して下さい」と言っておきながら、ズルズルと10枚になるという為体(ていたらく)。その節は、本当にご迷惑お掛けしました。

○桐原健真「渡辺崋山(1793-1841)・高野長英(1804-50):日本への目覚め」

いまだに、蛮社の獄は尚歯会への言論弾圧だという見解は生き残っているんだなぁというお話しでございます。なお、「蛮社の獄」を「尚歯会グループに加えられた弾圧事件」と書いてある事典を探すといったことは時間の無駄なのでやめましょう。

○桐原健真「吉田松陰(1830-59)・山鹿素行(1622-85):近世日本の「中国」問題」

「中国」という呼称を使いたくないという人の意見に何となく賛同したくなったものの、現代中国に対してまでそれを貫こうとするのには同意できないので、ことば選びには難渋しました。

その意味で、中華民国を支那共和国と呼び続けた日本政府のメンタリティは検討に値するかもしれません。

意外に、後期松陰に素行の影響はあるのかもしれないと思ったのですが、そのお話しはまた別の機会に。

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