2014年04月22日 (火)

今日のお題:桐原健真「【史料散歩】東北大学附属図書館狩野文庫蔵・松原右仲『万国輿地全図』」、『日本歴史』791号、2014年4月、93-95頁

『日本歴史』にお招きいただき、畏れ多くも「史料散歩」などを執筆する栄誉に預った次第。

当方が、史料を語るとは何とも恐縮なことこの上なく。

で、なぜ、文化も初年のころに刊行された松原右仲『万国輿地全図』なのかと申しますと、

「たまたま、目の前の東北大の図書館にあったから」

と言ってしまうとどうにも身もフタもございませんが、しかし、なぜかあったんですね、これが。

「いやいや、キリハラ、右仲の『万国輿地全図』なんざ世の中に結構あるぜ」

とおっしゃる方もおられるでしょうが、なるほどぞれは御説ごもっともで、ネット上では、結構楽に見つけられます。

[万国輿地全図](早稲田大学図書館)
http://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/bunko08/bunko08_c0013/

ついでに申しますと、この『全図』自体はそれほど最新知識が詰め込まれているわけでもなく、銅版画という表現方法的にも、内容的にも司馬江漢には後塵を拝していると申さざるを得ないところではあります。

しかしながら、この『全図』が重要なのは、じつは『全図』それ自体と言うよりは、まさしくその来歴にございます。ヒントは、これです。

http://dbr.library.tohoku.ac.jp/infolib/user_contents/kano/kochizu/CJR09414001/img/CJR09414001-1.jpg

ここにある蔵書印がキモになります。なんでこんなところに来たんだろうと、狩野亨吉に問いただしたいところではあります。

なお、『全図』の全体をご覧になりたい方は、

InfoLib
http://dbr.library.tohoku.ac.jp/

から「萬國輿地全圖」で検索願います。

2013年12月25日 (水)

今日のお題:桐原健真「徳富蘇峰『吉田松陰』と「維新」の行方」、杉原志啓・富岡幸一郎編『稀代のジャーナリスト・徳富蘇峰』藤原書店、2013年、143?147頁

稀代のジャーナリスト・徳富蘇峰 1863-1957

藤原書店
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暮れも押し詰まった節に一冊の本が届きました。

杉原志啓・富岡幸一郎編『稀代のジャーナリスト・徳富蘇峰』藤原書店、2013年12月
http://www.fujiwara-shoten.co.jp/shop/index.php?main_page=product_info&products_id=1357

でございます。ちなみに、こんな書き出しです。嗚嗟、幕末偉人伝って、こんな感じで書かれ始まっていくんだなぁというのがおわかりいただけたら幸い。


1893年に刊行された徳富蘇峰の『吉田松陰』は、単行本の形としては、事実上、初めての松陰の伝記であった。このことは、幕末に活躍した他の思想家や政治家と比べても、少しく遅い登場であったと言える。

西郷隆盛・木戸孝允・大久保利通ら維新三傑の伝記が、その死去直後にあたる1870年代末以降に陸続として出版されたことは当然であったとしても、松陰の師にあたる佐久間象山の伝記である清水義寿『信濃英傑佐久間象山大志伝』が1882年に刊行され、その翌年には、『汗血千里駒』(坂崎紫瀾著)のタイトルで坂本龍馬伝が著されていることを考えれば、蘇峰の『吉田松陰』の遅さは意外の観を与えるものである。さらに、松陰を死に追いやった井伊直弼の再評価を試みる島田三郎の『開国始末 井伊掃部頭直弼伝』が、1888年に現れていることは、こうした印象をいっそう強くさせよう。

西南戦争(1877年)・明治14年政変(1881年)を経て、あらためてあの幕末維新を思い返す風潮が生まれたのが1880年代であったが、松陰は明らかにこの潮流からは外れていた。もとより、彼の伝記を著そうという試みが皆無だったわけではない。しかし、彼の弟子たちには、いわば神格化された師を論評することへのタブー視があった。蘇峰の『吉田松陰』には、こうした「前史」が横たわっていたのである。

とは言え、『吉田松陰』が、今日においても松陰論の古典として評価が高いのは、けっしてその先駆性にあるのではなく、これが戦前期にしばしばみられた愛国主義・膨張主義的な松陰論とは一線を画しているからにほかならない。或る意味で、この『吉田松陰』という書は、偉人伝としての松陰論を拒否するところから出発しており、このことが却ってその成功をもたらしている……


蘇峰の『吉田松陰』を読んでいると、小楠の評価が非常に高くてびっくりします。その背景は色々なんだろうと思いますが、彼自身が小楠を大変尊敬していたのが一番の理由でありましょう。事実、1889年には、横井時雄に『小楠遺稿』(民友社刊)を出させているわけですから、これは本物です

そこら辺の処も書きたかったのですが、紙幅の関係もあり、断念した次第

あと、ちょうどこの頃に勃発していた人生相渉論争との絡みでもちょっと書いて見たかったのですが、これも断念

まぁ、どう考えても盛り込みすぎですな

2012年07月20日 (金)

今日のお題:桐原健真「「開国物語」を解体する」藤原書店『環』50号、2012年、436?439頁

*桐原健真「「開国物語」を解体する」藤原書店『環』50号、2012年、436?439頁

中野剛志『日本思想史新論:プラグマティズムからナショナリズムへ』(ちくま新書、2012年)の書評の名を借りた「鎖国日本」言説批判。

2011年07月31日 (日)

今日のお題:桐原健真「「情報の海」を越えて――吉田桧陰の情報との向き合い方に学ぶ」『人間会議』2011年夏号、56?61頁

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*『人間会議』2011年夏号、56?61頁
私塾二つで日本が変わった
2011年 6月 6日 発売
価格: 950 円(税込)
http://ec.sendenkaigi.com/hanbai/magazine/kankyoningen/

ずいぶん前なのですが、上げるのを忘れてました。

以前も松陰で書いた気はするのですが、今回は時局的な内容で、震災で停電の最中に届いたチェーンメールから話を始めて、情報リテラシーの必要性を論じた内容になっております。

当方は、「正確な情報が正しい判断を導びくとは限らない」という考えを持っております。つまり、客観的に正確な知識が必ずしも、主観的に正当な認識をもたらすとは限らないということです。

これは、洋学史なんかをやっている方と時たま話になるのですが、蘭学誕生以降、西洋の科学知識が大量に日本に入ってきたからといって、すべての日本知識人が世界の趨勢に目を向けることが出来たというわけではないので、海外知識の有無だけでは、「開明性」とか「近代性」とかいう議論は出来ないと思うのです。知識があるからといって、そこから導き出される結論は一様ではないのですね。

会沢正志斎だって、地球儀の知識林羅山はもとより新井白石以上に有していたはずなのですが、東方君子国という結論に達するために、地球という物理的な世界のほかに、

「およそ物は、自然の形体ありて存せざるはなし」(『新論』1825)

という、理の反映としての人間世界という独自の世界観を持ち込んで、「地球は丸いが、人間の住む大地には法則性がある」と断じて、日本こそ「大地之元首」であると言うわけですね。

こういった類は、べつだん徳川時代に限った話ではなく、現代でも同様であります。わたくしたちは、私たちの見たいようにしか世界を見ていないと申して良いかと。だから、ものの見方には気をつけましょうね、ということになるんですが。


ちなみにこの原稿は、震災直後に依頼されました。おかげで、初稿とか、写真とかいろいろチェックし損ねたところが多々あります。当方の写真に関しては、とくにそうで、5?6年前の写真が載っているので、なんとも恥ずかしい限り。

*使われた写真:桐原健真
http://db.tohoku.ac.jp/whois/detail/60abceb75f88cf138cfe34a7d5d09e4f.html

*最近の写真:桐原健真 | 教員のよこがお
http://www.sal.tohoku.ac.jp/staff/06000000_kirihara.html

……ひげが生えたくらいで、あんまり変わらないかも知れません。っていうか、暑いので剃っちゃったんですけどね。

2010年12月17日 (金)

今日のお題:中村義・久保田文次・陶徳民・藤井昇三・川邉雄大・町泉寿郎編『近代日中関係史人名辞典』(東京堂出版、2010年7月)

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中村義・久保田文次・陶徳民・藤井昇三・川邉雄大・町泉寿郎編『近代日中関係史人名辞典』(東京堂出版、2010年7月)


に書いていたことを思いだしました。

担当項目は、

小牧昌業(1843.9.??1922.10.25):幕末から大正の官僚、漢学者。
本田成之(1882.1.24?1945.3.4):大正・昭和前期の中国哲学史家。
河口慧海(1866.1.12?1945.2.24): 明治から昭和初期の仏教者・仏教学者。
能海寛(1868.5.18?没年不詳):明治の仏教者。

というなんとも不思議なラインナップ。仏教者の方はおおむね慧海論の関係なんだろうと思いますが、漢学者と中哲学者はなぜなのだろうと思いましたが、すごい勉強になりましたああ、漢文はこうして神聖性を失っていったのだなぁという感じです。高いですがご購入の価値はあるかと。

2010年04月27日 (火)

今日のお題:広告掲載:桐原健真『吉田松陰の思想と行動――幕末日本における自他認識の転回』東北大学出版会、2009年

"ファイル
『読売新聞』2010年4月27日朝刊(1面)に広告で掲載されました。
http://www.honya-town.co.jp/hst/HTNewspaperReview?isin=1&hiduke_rink=20100427

問題は、これが「哲学書特集」ということでしょうか。なんでも、紀元前399年の4月27日にソクラテスが没したそうで、これを記念して――ということだそうです。

プラトンやデカルト・カントのとなりに松陰がいるのは、なんとも申し訳ない感じもします。まぁ、刑死した理由に関して言えば、ソクラテスに負けないような気もしますが、やはりソクラテスの方が上かもしれません。

そういや、「歴史秘話ヒストリア」で、

先生、そりゃムチャです!?吉田松陰 人生体当たり?
http://www.nhk.or.jp/historia/backnumber/42.html

というのをやってました。箇々の事実は確かに間違いないので、文句はありません。と、いうかいろんな意味で良くできてます。

ちなみに、「龍馬伝」の松陰もすごかったです。

第6回「松陰はどこだ?」
https://pid.nhk.or.jp/netstera/specials/ryoma_100205/index.html

龍馬に会ったかどうかは知りませんが(非道い)、初対面の人間にあんなことを言いそうな人間ではあります。

2010年02月01日 (月)

今日のお題:書評「布引敏雄著『長州藩維新団―明治維新の水平軸』」(『部落解放』2010年3月号、70?73頁)

「おわりに」のあたりで、

本書は「水平軸」という分析枠を用いて、「諸隊に内在する人民的エネルギー」(九三頁)を明らかにしようとしたものである。たとえ権力側にとって屠勇がみずからのヘゲモニー(「垂直軸」)を確立する手段でしかなかったとしても、それに応えられるだけの「エネルギー」を彼らが有していなければ、維新団は成立しえなかったであろう。本書はいわばその「エネルギー」の存在証明であり、その思想的実態――とくに国学との関わり(五八?五九頁)――については、残された史料の制限を乗り越えて、今後より明確になっていくことであろう。そしてそれは同時に「解放令」に対する評価――解放の終着点なのか、出発点なのか――という近代日本の問題にもつながっていくに違いない。

と書きました。

国学を、どういった形で理解すべきか、神胤観念との絡みで考えてもかなり難しいなぁと自分の課題を述べていたりいなかったり。

2009年12月28日 (月)

今日のお題:「日本思想史系データベースの利用とその現状」(『日本歴史』(2010年1月号:740、101?103頁)

『日本歴史』(2010年1月号)
http://www.yoshikawa-k.co.jp/news/n349.html

とても短い文章ですが、

「データベースがインターネットという開放形のネットワーク上に公開されているということは、研究者だけを対象としているのではなく、国内の一般市民はもとより海外にまでその情報を提供することを意図しているはず」

という下りと、

「テキストDBの整備がもっぱら個人や特定の研究機関によって計画・展開されるにとどまり、これらが有機的に連関していない状況に変わりはないのは残念である。国家プロジェクトに拠らざるDB構築――それは日本の学術研究の底力を示すものであると同時に、その社会的貧困あるいは政治的無関心をも意味しているのではないだろうか。」

という箇所は、切実にそのように思います。とくに、古典籍のテキストデータベースに関しては、完全に他の東アジア諸国の後塵を拝していると言わざるを得ないわけで、このままですと、日本漢文なんてものは、その固有性を失う危険性すらあると申せましょう。

2009年11月30日 (月)

今日のお題:「世界的眼孔・松陰と小楠の国際社会認識――近代国家間システムを超越する思想」(『別冊・環(17):横井小楠 1809-1869 「公共」の先駆者』藤原書店、2009年11月、170?174頁)

$FILE1_l 別冊『環』 横井小楠 1809-1869 「公共」の先駆者
http://www.fujiwara-shoten.co.jp/shop/index.php?main_page=product_info&products_id=1099

   はじめに

徳富蘇峰は、三人の幕末思想家を挙げて次のように評している。

「宇内(うだい)の大勢に至りては、横井〔小楠〕は世界的眼孔を以てこれを悟り、佐久間〔象山〕は日本的限孔を以てこれを察し、藤田〔東湖〕に至りては、水戸的眼孔を以て、僅(わず)かにこれを覗(うかが)いたるのみ。」

小楠・象山・東湖の三者は、いずれも強い思想的影響力を有した人物である。小楠が世界規模の視座から時代を捉えていたのに対し、象山は世界における具体的単位としての日本国家の視座から、そして東湖に至ってはさらに細分化された藩のレベルからわずかにこれを捉えることが出来たに過ぎない――蘇峰はこのように喝破する。この評価は、三者の本質を良く衝いており、人物評に卓越した蘇峰の面目躍如と言ってよい。

蘇峰がこのように小楠を高く評価した背景には、彼の父である一敬が小楠の一番弟子であったことも無関係ではないだろう。しかし彼がこの評を書き記した著作は小楠にではなく、幕末の志士である吉田松陰に捧げられたものであった。「第二の維新」を標榜した蘇峰は、松陰に「局面打破」すなわち時代の突破力を見出したのである。

「東湖の手腕用ゆる所なく、佐久間の経綸(けいりん)施す所なく、小楠の活眼行う所なく、智勇交(こもご)も困(くるし)むの極所に際し、かえって暴虎(ぼうこ)馮河(ひょうが)、死して悔(くい)なき破壊的作用のために、天荒を破りて革新の明光を捧げ来るものあり。その人は誰ぞ、踏海(とうかい)の失敗者、野山の囚奴、松下村塾の餽鬼大将、贈正四位、松陰神社、吉田松陰なり。」

尊攘派を形成させた東湖の組織力、東西の学問を修めた象山の学識、そして世界規模の視座を持つ小楠の洞察力――これらが発揮できないような閉塞状況に際してこそ、「蹉(さ)跌(てつ)」や「失敗」を繰り返しつつも、ひたむきに時代にみずからを投げ込んだ松陰のような人物が求められるのだと若き蘇峰は「第二の吉田松陰」が現れるべきことを力強く説いたのである。

この蘇峰が著した『吉田松陰』の巻頭には、松陰から小楠に宛てられた書簡が石摺(いしずり)で掲げられている。蘇峰がその序文において触れているように、この書簡は、一八五三(嘉永六)年、ロシア・プチャーチン艦隊への密航のために長崎に向かったもののこれを果たせなかった松陰が、その帰路において小楠に送ったものである。松陰は、この長崎行において熊本に立ち寄っており、その際、小楠と親しく交流していた。

この書簡で目を引くのは「弊藩」すなわち長州藩における有為の人物の列挙である。松陰は小楠にこれら「有志の士」を紹介することで、藩を越えた全国的なネットワークを模索したのである。そこには、小楠が松陰の構想するネットワークの一つの核(コア)となるであろうという確信を看取することが出来よう。

2009年11月01日 (日)

今日のお題:「倒幕」へと志士達を突き進ませた吉田松陰の「松下村塾」:『商工にっぽん』(2009年10月号、20?23頁):【特集1】ムーブメントと場

$FILE1_l 商工にっぽん(10月号) - 商工にっぽん(20?23頁)
http://www.sho-ko.co.jp/magazine/shoko/shoko_200910.html

「明治維新の核となる人物が輩出したことで知られる「松下村塾」。吉田松陰が主宰するようになった頃に最盛期を迎える。それは兵学者として国際情勢に精通していた松陰の講義が、情報感度の高い萩の若者達を惹き付けたからに他ならない。そのような中で弟子たちは、松陰が発想した斬新な「倒幕」の思想に触れ、幕府に処刑された松陰の亡き像を胸に、一直線に明治維新へと突き進んでいった。」そうです。
(http://www.sho-ko.co.jp/magazine/shoko/pdf/200910_kirihara.pdf)

インタビューを元にして文章化していただいたのは初めてです。

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