2010年02月01日 (月)

今日のお題:桐原健真「超脱の思想――小楠・松陰そして龍馬」(岩下哲典・小美濃清明編『龍馬の世界認識』藤原書店、2010年2月、95〜114頁)

龍馬の世界認識
龍馬の世界認識
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藤原書店
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桐原健真「超脱の思想――小楠・松陰そして龍馬」(岩下哲典・小美濃清明編『龍馬の世界認識』藤原書店、2010年2月、95〜114頁)松陰でなく小楠でなく龍馬を書く理由は、その泥臭さにあると言って宜しいかと。

2009年10月31日 (土)

今日のお題:「常州水府の学」としての水戸学――会沢正志斎を中心に(地方史研究協議会編『茨城の歴史的環境と地域形成』雄山閣、2009年10月、91?110頁)

$FILE1_l Amazon.co.jp: 茨城の歴史的環境と地域形成: 地方史研究協議会: 本

   はじめに

近世日本にはいくつかの学派が存在する。これらの学派の多くはその首唱者あるいはその私塾の名をもって記され、特定の地域がその学派の呼称として通行した例は少ない。それは日本における思想の伝達が、思惟様式それ自体ではなく、しばしばある人物の思惟様式の解釈をめぐって展開されてきたことと無縁ではないであろう(日本仏教における始祖崇拝などもこの問題と揆を一にするものと言える)。

近世後期の水戸藩において展開した「水戸学」と呼ばれる学派は、この意味で例外的な存在であり、またその呼称はそれが特定の人物によって創始されたものではないことを示している。しかしこの学派が「水戸学」あるいは「水府の学」とはじめて呼称されたとき、むしろそれは新奇な学説を唱える集団として見做されたのであり、長州藩校明倫館の学頭を務めたこともある朱子学者の山県太華(一七八一?一八六六)は、幕末志士である吉田松陰(一八三〇?五九)との論争の中で次のように述べている。

「近頃世上に水府一流の学者之れあり……本藩にても近来水府の学を信ずる者間々之れあり、近侍の臣又は政府の間にかやうの人もありて、或は君を惑はし奉り、又は政事の間に此の意移らば、其の害勝げて言ふべからず。」

太華は「其の害勝げて言ふべからず」とすら指弾したが、この表現は、その背後に水戸を中心として展開された言説がまぎれもなく体系を有した一箇の学派であるという認識が存在していたことを意味するものでもある。しかしながらこの言説は、研究史的にしばしば太華の指摘する「害」の部分、すなわち政治的主張としての尊王攘夷論がとくに注目されたために、政治思想史の文脈を中心に研究され、それゆえ、その学派としての体系的な思惟様式への言及は必ずしも多くはなかった。

「尊皇」思想としての水戸学それ自体に価値が見出された戦前において、「苟しくも大義を明らかにし人心を正せば、皇道奚(いずくん)ぞ興起せざるを患へん」(「回天詩」)と詠った藤田東湖(文化三〈一八〇六〉?安政二〈一八五五〉)に、政治思想史的研究が集中したことは当然であったと言えよう。これに対し、戦後はいわゆる皇国史観に対する反省から、水戸学を明治国家における政治的イデオロギーの基礎として研究する傾向が強まる。それゆえ幽谷・東湖父子のような実践家ではなく、「祭は以て政となり、政は以て教となり、教と政とは、未だ嘗て分ちて二となさず」(『新論』文政八〈一八二五〉)と主張した理論家(イデオローグ)としての会沢正志斎(天明二〈一七八二〉?文久三〈一八六三〉)が中心的に取り上げられることとなった。日本の敗戦を前後して、水戸学に対する評価は大きく変わったが、そのいずれの場合においても、水戸学を近代天皇制国家との強い連続性のうちに捉えようとする点においては、変わることはなかったのである。

このような、いわば近代という歴史的帰着点から分析しようとする限り、水戸学が成立した近世という思想世界から、それは切り離されて解釈されざるをえなくなる。それゆえ、彼らの主張はしばしば近代的に再解釈され、その理解から逸脱する部分はこれを軽視、あるいは黙殺することすらなされたのである。たとえば、幽谷・東湖の「全集」を編纂した菊池謙二郎(一八六七?一九四五)は次のように述べている。

「新論の冒頭に『神州は太陽の出づる所、元気の始まる所』とあり又神州は世界の首部を占め、西洋諸国は脛足に当り、亜墨利加は背部〔原・背郎〕に当るとあるを見て、事理に通ぜぬ誇大の言辞であると貶(けな)すものもあるが是は蓋し著者の寓意のある所である。……正志斎が対外策を論ずるに際し、先づこの自屈自卑の弊風を打破し、自尊自負の気風を喚起し国土をして自ら恃む所を知らしめんとて殊更にかゝる譬喩を用ひたるものと察せらる。『太陽の出づる所』とあるを、文字通りに解釈する者のあるのは其人の理解力理想力が足らぬのである。百年以前の人であつても、太陽が実際我国より出る出ないは問題にせぬことは明かである」

会沢は『新論』において、大地を身体ととらえ、その東方に位置する日本を陽気のはじまるところであり、それゆえ大地の元首であるという独自の世界像を叙述している。すでに別稿で述べたように、それは会沢独自の易理解に深く根ざした神学体系であり、決して「寓意」などではなかった。

もとより今日のわれわれにとって、地球が丸い以上、日本が極東に存在する「事実」を、「東方君子国」としての尊厳性の根拠とする会沢の論理には疑問を呈せざるをえない。菊池もまた近代人として、これを額面通りに受け取ることが出来なかったであろうことは想像に難くない。そのため彼は会沢の世界像を「寓意」とみなすことで「処理」したのであり、それ自体は科学的で合理的な態度であると言えよう。しかしそれが会沢の思惟そのものを理解したものであるのかという点に関しては疑問が残る。むしろそこには会沢を近代国体論に連続させることで、彼を近代の磁場のうちに取り込もうとする態度こそが見出される。そしてこの態度は、立場を変えながらも戦後の水戸学研究においても承け継がれているのであり、そこにおける会沢は、天皇制国家の先駆的イデオローグとして描かれることとなる。それは歴史の不可遡性をに対する過ちを犯していたと言わざるを得ない。

本稿は、これまでの水戸学研究におけるこのような動向への反省から出発し、あくまで水戸学を近世という思想世界に置くことで、その特質を論ずることを目的とするものである。この作業によって、水戸学がたんに観念的な言説のみに根拠するのではなく、「日域之東首」(会沢正志斎『下学邇言』弘化四年〈一八四七〉起稿)と呼ばれたこの常陸国という空間においてはじめて成立しうる、まさに「常州水府の学」とも言うべき地域的な特殊性を有した思想であったことを明らかにしていきたい。

2009年03月07日 (土)

今日のお題:陶徳民・姜克實・見城悌治・桐原健真編著『近代東アジアの経済倫理とその実践 渋沢栄一と張謇を中心に』・『東アジアにおける公益思想の変容 近世から近代へ』日本経済評論社、2009年

陶徳民・姜克實・見城悌治・桐原健真編『近代東アジアの経済倫理とその実践 渋沢栄一と張謇を中心に』日本経済評論社、2009年(定価3,800円+税)

$FILE1_l 第01部 倫理と思想
第01章 東アジア的価値観を有する近代産業の指導者(馬敏)
第02章 近代日中両国の「経営ナショナリズム」についての一考察(于臣)
第03章 渋沢栄一と張謇の実業思想についての比較(周見)
第04章 近代日中両国の企業家と官・商関係(中井英基)
第05章 渋沢栄一の経済倫理構想と徳育問題(沖田行司)
 第02部 社会と公益
第06章 張謇の社会事業と日本(呉偉明)
第07章 環境保護に対する張謇の功績について(張廷栖)
第08章 「中国女学堂」の設立から見る経元善の社会公益事業(石暁軍)
第09章 中日両国の近代文化事業における張謇と渋沢栄一の意義(銭健)
 第3部 文化と公益
第10章 渋沢栄一と『論語』(松川健二)
第11章 渋沢栄一による歴史人物評伝出版とその思想(見城悌治)
第12章 張謇と翰墨林印書局の翻訳・出版事業(鄒振環)

陶徳民・姜克實・見城悌治・桐原健真編『東アジアにおける公益思想の変容 近世から近代へ』日本経済評論社、2009年(定価3,800円+税)
$FILE2_l 第1部 歴史における公益思想の諸相
第01章 近世中国における儒教倫理と商人精神(余英時)
第02章 東アジアの救済施設としての社倉(陶徳民)
第03章 近世における経済道徳と慈善事業との関係(L・ロバーツ)
第04章 近世イギリスの社会公益事業(坂下史)
 第2部 近代日本における公益思想の変遷
第05章 近代日本社会の形成と儒学思想(姜克實)
第06章 「病院」の思想:幕末維新期における西洋社会事業観念の展開(桐原健真)
第07章 渋沢栄一にみる公益という名の慈善(山名敦子)
第08章 留岡幸助の慈善事業思想(室田保夫)
 第3部 近代中国の公益思想 
第09章 中国社会福祉史上における近代の始まり(夫馬進)
第10章 近代中国実業家の社会奉仕(朱英)
第11章 近代南通における社会保障システムの構築と張謇の役割について(趙明遠)
第12章 張謇・熊希齡にみる近代社会公益思想の展開(陳瑋芬)

当方の論文「「病院」の思想――幕末維新期における西洋社会事業観念の展開」は、2冊目に入っております(117?136頁)。1冊目は編集後記だけです。

2004年ごろから営々と続けてきた研究会がようやく実を結びました。近代日本を東アジアという枠組みの中に据えて検討したいという方にはおススメです。とくに、経済思想というか近代化論的には結構面白いです。

中国近代化において、仏教を中心とする宗教思想に期待する傾向がかなり存在したというのは、興味深い指摘です。

日本では西村茂樹が『日本道徳論』なんかで「世外教」(宗教)ではなく「世教」(哲学)でもって国民道徳をうち立てようとする近代化論を主張していたことを考えると、近代化における宗教の役割に関する日中比較とかやってみたくなりました。>やるんかい

まぁ、アタシの論文「病院の思想」も「どうして日本人は近代において宗教思想を軽視するようになったのか」というところから始まっているわけですから、そう遠くもないかと。

ちなみに、研究会のこれまでの軌跡はコチラ
  ↓
渋沢国際儒教研究チームHP
http://www.sal.tohoku.ac.jp/shibusawa/

いやホント、かなり喜びがございます。中国の方と遣り取りしなければならないというのに、中国語ができないという絶望的な状況にも関わらず、辞書を引き引き例文をコピペし続けたのも懐かしい思い出です。っていうか、大丈夫だったんだろうかあの文章。

日本経済評論社の方々には随分とご面倒をおかけいたしました。御礼申し上げます。>こんなところで言ってどうする

2009年03月01日 (日)

今日のお題:求法の道――河口慧海と「日本仏教」(小川原正道編『近代日本の仏教者における中国体験・インド体験』DTP出版2009年03月、61?72頁)

はじめに

二度のチベット旅行で知られる河口慧海(一八六六?一九四五)を「明治の精神の凝った美しい花のひとつである」と称えたのは、川喜田二郎氏である。氏は次のように、慧海および彼によって表現された「明治という時代」を表現している。

「河口慧海は、あの偉大な明治という時代の生みおとした精華である。その明治の近代化というものは、じつに世界史的な大事件であったのだ。西欧に始まった近代化という一大変革は人類の歴史に永久に記念されるべきできごとであった。このできごとの波はやがて全地球上を覆っていったのであるが、はじめのうちは欧米人にしかできないことと思われていたのである。ところが、その西欧から海山万里をへだてた極東の世界で、突如として近代化の刺戟に積極的に反応しはじめたものがある。それが日本だったのである。」

ここからは、近代化に対する惜しみない賛辞と、ヨーロッパにはじまったそれを実現しえた明治日本への自負を見ることが出来よう。チベットという未踏の地を「探検」した慧海を文明日本の象徴的存在と見敵す氏は、慧海のうちに、同様にこの地域を「探坐遷する人類学者としての自分自身を重ね写しているようにも見える。

慧海に対する評価は久しく探検者としてのものであった。とくに戦後日本においては、文化人類学および地理学の偉大な先駆者としてその学問的系譜のうちに位置づけられてきたのである。もとよりこのような「探検家」としての慧海評価は彼の帰国直後から存在しており、哲学館(現在の東洋大学)以来師事していた井上円了二八五八?一九一九)によっても「西蔵探検僧河口慧海」と表現されている。

しかし本来、仏教者として求法のために入蔵した慧海であったが、一方で仏教者としての評価は必ずしも高いものではない。もちろん日本における梵蔵仏典学の先駆的人物としての評価は揺るぐ}」とがないものの、近代日本仏教の系譜において彼が語られることは少ないのである。それは、慧海における「仏教原理主義」(奥山直司氏)とも言われる宗教的実践の姿が、「日本仏教」のうちにみずからが取り込まれることをもはや拒否してしまっているからでもある。

明治初年の廃仏毅釈によりそれまでの政治的特権性を剥奪され、また神道との親和性を宗教的にも否定され、多方面で大きな打撃をうけた仏教界は自己改革に迫られた。その結果成立した仏教が、いわゆる「日本仏教」とよばれるあらたな仏教のあり方である。それは近代以前の護法護国論に系譜しつつも、国民国家としての日本の存在を前提とした一国史的語りの一つのバリエーションでもあった。

井上円了『仏教活論序論』(一八八七年)に代表されるこの言説は、その強い政治性の一方で宗教的信仰の側面における後退をもたらした。それは宗教一般が国民道徳論においてその役割を期待されなかったことも一因をなしているのだが、近代の仏教者は、須弥山や阿弥陀といった超越的存在への信仰を積極的に語らず、むしろ念仏や禅などを通した自己修養にもとづく個人主義的な教説として自己規定していったことは見逃せない事実である。しばしば近代日本仏教史における一つの頂点として叙述される「精神主義」の提唱者・清沢満之(一八六三?一九○三)や仏教徒における社会運動の象徴的事例として挙げられる新興仏教青年同盟(一九三一)の妹尾義郎(一八八九?一九六一)などは、まさにこのような系譜の上に位置する。

このように考えたとき、みずからをあくまで「求法僧」として規定し、宗教としての仏教への信仰そのものによって「一切衆生を済度」することを目指していた慧海が、「日本仏教」の言説からどうしてもはずれざるを得なかったのはいわれのないことではない。もとより彼もその初期には、師円了のような「日本仏教」的言説に誘引されて入蔵したのであるが、やがてそれは「日本仏教」といった一国的語りから逸脱していく。この意味で彼の「入蔵」とは、たんなる文明人のチベット探検とみるべきではなく、「日本仏教」なるものとの関係の中から仏教者としての彼自身の意図を見出して行く必要がある。本稿は、彼における二度の入蔵を通して、その特異な仏教観を明らかにすることを目的とするものである。そしてこのことは、いわゆる「日本仏教」的な言説の認識枠から解放されたあらたな視座を、近代日本の仏教史に提供することになろう。

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2008年12月20日 (土)

今日のお題:「「外夷の法」――吉田松陰と白旗」、『日本思想史研究』40号、2008年03月、82?98頁

※諸般の事情で、今年の三月に出たことになっている、師走の論文。

   はじめに

一八五三(嘉永六)年に来航したペリーによる強硬な交渉態度は、しばしば砲艦外交表現される。しかし、今日知られているように、実際には武力行使の権限を与えられていなかった彼は、硬軟あわせた交渉を用いることで、所期の目的を達成しようとしたのであった。言うまでもなく彼の抱えるこのような事情を当時の日本人は知ることはなく、その後も「人を拒絶して相容れざるものは、天の罪人なれば、たといこれと戦うも通信貿易を開かざるべからず」(福沢諭吉『文明論之概略』〈一八七五年〉引用の「社友小幡篤次郎君」の言)といったような認識が広くそして久しく受容されていった。このような認識を支えたものとして幕末維新期に流布した文書に、ペリーが日本側代表に送ったとされるいわゆる「白旗書簡」が存在する。この白旗書簡にはいくつかの写本が存在するが、その内の一つには次のようにある。

    一亜墨利加国より贈来ル箱の中に、書翰一通、白旗二流、外ニ左之通短文一通、
      皇朝古体文辞  一通  前田夏陰読之
      漢文      一通  前田肥前守読之
      英??文字   一通  不分明
      右各章句の子細は、先年以来、彼国より通商願有之候処、国法之趣にて違背に及。殊ニ漂流等之族を、自国之民といへ共、撫恤せざる事、天理に背き、至罪莫大に候。依ては通商是非々々希ふにあらす。不承知に候べし。此度ハ時宜に寄、干戈を以て、天理に背きし罪を糺也。其時は、又国法を以て、防戦致されよ。必勝ハ我にあり、敵対兼可申歟。其節に至て、和降願度候ハヽ、予が贈る所の白旗を押立示すべし。即時に炮を止め艦を退く。此方の趣意如此。


要約すれば、「通商を拒否する場合は、その天理に背く罪を糺すために戦端を開くであろう。戦いになれば、必ずわれわれが勝利するので、その時は降伏と和睦を乞うこの白旗を立てよ」ということになり、まさにペリーの砲艦外交的態度を象徴する文書と言うこともできよう。

もとよりこの白旗書簡と呼ばれる文書はアメリカ側の記録にもなく、早くからその真偽が問われており、その論争は、一九九〇年代には大江志乃夫氏(『ペリー艦隊大航海記』立風書房、一九九四年)と松本健一氏(『白旗伝説』新潮社、一九九五年)を中心に展開されたが、二〇〇一年に「新しい歴史教科書をつくる会」の『新しい歴史教科書』(扶桑社)が、コラム内で白旗書簡を歴史事実として紹介したことに対し、宮地正人氏が、「ペリーの白旗書簡は偽文書である」(『UP』二〇〇一年八月号)をはじめとして強く反駁したことによりあらたな展開を迎えることとなった。この論争の詳細については、岸俊光『ペリーの白旗――一五〇年目の真実』(毎日新聞社、二〇〇二年)を参照されたい。その後、綿密な史料批判にもとづき、白旗授受の事実性を指摘しつつ、白旗書簡の偽書性を認めた岩下哲典氏による多数の論攷によって、ほぼ通説が形作られたと言って良いであろう。

このような白旗書簡の真偽に関する議論の一方で、白旗自体は幕末外交における「万国公法」運用の実例として理解されてきた。本稿は書簡の真偽ではなく、「認識されたものの認識 Erkenntniss des Erkannten」を問う思想史の立場から、白旗書簡および白旗という「国際社会」の法――現実には「西洋」の法――を、幕末の尊攘志士である吉田松陰(一八三〇〈文政一三〉?五九〈安政六〉)がいかに認識したのかを論ずることを目的とする。このことは同時に、白旗に象徴される「国際社会」の法を、幕末維新期の人々がどのように認識し、かつ受容していったのか、その転回を考察することに資することともなろう。

2008年10月24日 (金)

今日のお題:桐原健真「死而不朽――吉田松陰における死と生」、『季刊 日本思想史』第73号、2008年、55?74頁

図書・出版 ぺりかん社
http://www.perikansha.co.jp/new2/Search.cgi?mode=SHOW&code=1000001493

※2008年11月20日追記

最近知ったのですが、「死而不朽」というのは業界の人間でないと読めないことが分かりました。

差し上げて、「で、これなんて読むの?」と聞かれます。

なんとなく、失敗した感じがします。

正しく読むのなら、「死して朽ちず」となるのでしょうけど、「死して不朽」が一番落ち着きますかね。

タコツボ((C)丸山真男)の弊害、その1ではあります。

2008年08月01日 (金)

今日のお題:「帝国」の誕生:19世紀日本における国際社会認識(黄自進編『東亜世界中的日本政治社会特徴』台北・中央研究院人文社会科学研究中心亜太区域研究専題中心)、2008年、139?164頁

   はじめに(脚注省略)

1945年の第二次世界大戦の終結にともない、「帝国」を自称する国家が次々と消滅していったのちも、「帝国」という言葉は、分析概念(あるいは政治的標語)としての「帝国主義」の語とともに人口に膾炙されたが、1990年代におけるマルキシズム思潮の後退は、この意味における用法をもなかば死語化させることとなり、それ以降は、国際政治における強権性を表現する比喩として用いられるに過ぎなくなった。しかし、A・ネグリAntonio NegriおよびM・ハートMichael Hardt両氏の共著になるEmpire(2000年)が世に問われ、東アジア諸国で『帝国』と翻訳されたことによって、この語は再び国際秩序を叙述する術語として用いられるようになった。

ネグリ氏らが「帝国Empire」と呼んだのは、アメリカ合衆国のような本来主権国家でありながら、同時にその枠組みを逸脱した新しい国家主権のありようであった。グローバリゼーションの進展にともなって現れたこの「帝国」は、本来有していたみずからの領域(国境)を越え、他の領域(主権国家)を周縁化していく存在であり、それは、その権力がみずからの領域内において、均質的に、そして排他的に存在していた近代主権国家とは本質的に異なっている。

しかしながら、「帝国」ということばが、東アジアにおいて広く受容されたとき、それは、ほかの政治主体を周縁化する存在としてではなく、むしろ或る限られた領域を有する近代的な独立主権国家の謂で用いられたのであり、その第一条に「大韓国は、世界万国に公認された自主独立の帝国である」と規定された「大韓国国制」(1899年)は、まさに「帝国」がいかなる意味で受容されたかを示すものと言えるであろう。すなわち「帝国」は、冊封された国王の治める「王国」とは異なり、主権者たる元首としての皇帝が治める独立不羈の一国家として認識されていたのである。
また中国史上、唯一「帝国」の名を冠する国号を持った国家が、袁世凱が中華民国に代えて建国宣言した中華帝国(1915年・3ヶ月で廃絶)であったことは、象徴的であった。すなわち主権者の所在を明示することばとしての「民国」の対語をなす「帝国」は、「民国」同様、近代的国家概念の範疇におけることばであり、この点で袁の中華帝国は、周縁性を有したかつての王朝国家とは断絶しているのである。

このようなすぐれて近代的な意味を有する「帝国」ということばの用例を、中国古典に求めることはできない。なぜならば、そもそもこのことばが、keizerrijk(皇帝の国)というオランダ語を翻訳した徳川時代後期の蘭学者が造ったものであり、いわゆる近代漢語の一種だからである。このことは、1866(慶応2)年刊の堀達之助編『改正増補・英和対訳袖珍辞書』に、「Empire」を「帝国」と記しているのに対し、中国で出版されたW・ロプシャイトWilliam Lobscheidの『英華字典』(1866?1869年)には、「Empire」を「国、皇之国、中国、中華、天下」などと記すだけで、「帝国」の語が見えないことからも容易に知ることができる。

ことばはたんなる文字や音声ではない。或る対象を、「それ」として認識するための意識を形作る根本的な観念なのであって、ことばのないところに認識はない。「帝国keizerrijk」もまた同様であり、18世紀末日本蘭学者が、このことばを生み出したことにより、それ以降の日本知識人は、この「帝国」なる新語をもって世界を分節し、また自己をそのうちに位置づけていくことが出来たのである。以下本稿は、「帝国」をめぐる言説の受容を通して当時の日本人における世界認識の転回を明らかにするものである。

2007年10月01日 (月)

今日のお題:桐原健真(葛睿訳)「作為近代化的模式――新新世界之雛形」、第四届張謇国際学術研討会組委会編『張謇与近代中国社会』南京大学出版会、2007.10、173?179頁)

前の年の秋にやった発表を中文化してもらいました。

Abstract
「国際社会」が所与のものとして存在していた時代に生れた張謇(1853?1926)は、「天下は一家、中国はその一員」と主張して、自らを近代化し、「国際社会」の一構成員となることを欲した。本稿は彼の近代化思想を、その範型の模索という側面から、日本の明治維新における近代化と比較しつつ論ずることを目的とするものであり、このことは東アジアにおける近代化の諸相を考察することに資するものともなろう。
Key words
近代化・範型・明治維新・実業・立国自強

2006年12月01日 (金)

今日のお題:東方君子国の落日――『新論』的世界観とその終焉(明治維新史学会『明治維新史研究』第3号、2006年12月)

   はじめに(脚注省略)

 戦前において刊行された「国体」の名を冠する思想史研究書・道徳書は枚挙にいとまがない。もとよりそのうちには、今日に至るもなおその学問的光彩を失わないものもあるが、多くの「国体」思想史家の筆法においては、「国体」は問題史的に日本歴史の上に投企され、たちまち天皇の「万世一系」と軌を一にした「国体」思想史が叙述されていったのである。

 しかし、幕末志士・吉田松陰(一八三〇〈天保元〉?一八五九〈安政六〉)といわゆる「国体論争」(橋川文三)を展開した老朱子学者・山県太華(一七八一〈天明元〉?一八六六〈慶応二〉)が、「国体と云ふこと、宋時の書などに往々之れあり、我が邦の書には未だ見当らず。水府に於て始めて云ひ出せしことか」と断じたように、幕末において「国体」ということばは、出自の不確かな「新語」さらには「流行語」とすら認識されており、何ら近世日本思想を――いわんや日本思想全体を――代表しうる観念ではなかった。この意味で、「国体」ということばが思想的に生起する以前の日本思想を、この「国体」という観念をもって系譜論的に語ること自体、時間と空間とを超越した論理矛盾であったと言うべきであろう。まさに、L・アルチュセールが、「イデオロギーにはそれ自身の歴史はない」と指摘したゆえんである。

 この「国体」ということばに対し、思想的な生命力を与え、幕末の「流行語」たらしめた幕末の思想家として会沢正志斎(一七八二〈天明二〉?一八六三〈文久三〉)を挙げることが出来るであろう。会沢が『新論』(一八二五〈文政八〉年成稿)において、日本の尊厳性を高らかに謳い上げた際に用いた「国体」ということばが、幕末の志たちを魅了し、さらには近代日本においても「魔術的な力」(丸山真男)をふるったことは周知の事実である。

 しかし、近代天皇制国家が「国体というみずからのイデオロギーに与えることのできた根拠は、ただ「万世一系ノ天皇」(『大日本帝国憲法』一八八九年、第一条)だけであった。このことは、一八九○年に渙発された教育勅語においても同じであり、天皇統治の正統性を「万世一系」に求め、さらには五倫五常を中心とした徳目を「国体の精華」として示すにとどまっていたのである。

 しかしながら「万世一系」というあくまで天皇制国家においてのみ妥当する価値を、「万邦無比」という形で誇称することは、特殊なるものを、「特殊なるがゆえに普遍的価値を有する」と主張する論理的誤謬を犯していたと言わざるを得ない。およそ或る王統における持続性は、その主権に服していない者にとっては、ほとんど価値あるものと認められないのであり、それは、一九七四年の革命により終焉したエチオピア王朝が、(その間の消長はありながらも)実に三千年の長きに及ぶものであったという事実に対し、われわれが抱く感覚を想起すれば容易に理解できることであろう。

 なるほど「宝祚の長久」は「大八島国」においては、いわば「自然的」な事実(津田左右吉)であり、その限りで妥当性を有するものであったであろうが、それは「東の方は陸奥(みちのく)、西の方は遠つ値嘉(ちか)、南の方は土佐、北の方は佐渡の彼方(をち)の処」(祝詞「儺の祭の詞」)には及ぶものではなかった。それゆえ、近代に入り帝国主義国家として得た新領土で、この「宝祚の長久」にもとづく「御稜威」が無条件に瞻仰されるものとして迎えられる保証はなかったのであり、事実植民地の「新国民」に対し、いかに国民道徳を涵養するかということが、現実の課題ともなったのであった。いわんや、みずからの祖国を亡ぼされた民にとって、その原因たる征服者の「忠良ナル臣民」(『大日本帝国憲法』「告文」)たらんとすることは、実際のところ「忠臣孝子」の挙ではなく、むしろ「乱臣賊子」の行となる可能性を常にはらんでいた。また逆に、亡ぼされた祖国に「忠良」たらんとすれば、彼はまず「非国民」となる必要があったのである(一九一九年、大韓民国臨時政府成立)。このようにみれば、「万世一系」がいかに特殊日本的な価値であり、また普遍性を欠くものであったかは明らかであろう。

 特殊なものを普遍的なるものとして主張することに起因するこの理論的脆弱性は、日本帝国の敗戦まで続く近代国体論のアポリアであり、あの『国体の本義』(一九三七)ですら、その「本義」を「大日本帝国は、万世一系の天皇皇祖の神勅を奉じて永遠にこれを統治し給ふ。これ、我が万古不易の国体である」と定義する以上のことができず、その残余の紙幅のほとんどを、やはり「国体の精華」という現象面の叙述に終始せざるをえなかったという原因ここに淵源していた。

 このように「国体」――すなわち日本の尊厳性――を、天皇制国家においてのみ妥当する「万世一系」という事実に根拠させたことは、ほかならず自己の支配の正当性を客観的に証明する方途をみずから閉ざすこととなった。天皇制国家における真善美のすべての価値が「国体の精華」という恣意的な判断に基礎づけられ、「遊ぶ間、眠る間と雖も国を離れた私はなく……私生活の間にも天皇に帰一し国家に奉仕する」ことが求められるような私的領域に対する公的領域の無制限の侵犯は、まさにこの客観性の喪失に由来していたといえるであろう。

 しかし、近代国体論の持つこのような理論的脆弱性は、その誕生のときから運命づけられていたのであろうか。本稿は、会沢の国体論の構造を明らかにすることをもって、この問いへの一つの答えとし、ついでその国体論が幕末においていかに受容・変容せられたかにまで言及しようとするものである。このことは同時に、近世独自の国体論――換言すれば近世特有の自民族中心主義の存在形態の探究に資するものであり、さらには、天皇制国家のイデオロギーとしての近代国体論の性質を、それに直接的に系譜するのではない「他者」としての近世思想の側から照射するものともなろう。

2006年03月01日 (水)

今日のお題:吉田松陰『野山獄読書記』の基礎的考察(学術文献刊行会編『2003 年度 日本史学年次別論文集・近現代3』朋文出版、2006年03月)

再録。寂しいので載せてみます。

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