2005年12月01日 (木)

今日のお題:日韓比較尊攘思想研究 ――尊華攘夷と尊王攘夷のあいだ(慶尚大学校慶南文化研究院・南冥学研究所『南冥学研究』第20号、2005年12月)

KIRIHARA Kenshin: A comparative study of Korean and Japanese Zong-yong (尊攘) thought

In the middle of the nineteenth century (especially after the Opium War), there was a surging chauvinism movements in East Asia. Korean and Japanese chauvinists often shouted similar slogans; Zongfa-yangi (尊華攘夷; Revere the China and expel the foreigners) and Zongwang-yangi (尊王攘夷; Revere the Emperor and expel the foreigners). The activists called these slogans Zong-yang (尊攘; Revere and Expel) for short. Zong-yang thought was not only chauvinism but also nationalism (of course, It was a pre-modern form). The purpose of this paper is to make a comparative study of Zong-yang thought in Korea (Confucian Husan, Heo-Yu (后山・許愈) : 1833-1904) and Japan (Loyalist YOSHIDA Shōin (吉田松陰) : 1830-1859).

Heo-Yu was a famous the scholar of Hanju school (寒洲学派) established by his Master Li Hanju (李寒洲) in the end of the Chosun dynasty. At that time Korea faced imperialist invasions from the West and Japan. It was in a very turbulent age that he lived. In such an age, many Confucians raised the loyal armies, while he devoted all his energy to educating disciples, to proofreading “the Nammyong-zip”(『南冥集』) and “the Lihaku-zongyo” (『理学綜要』), and to publishing the selected works of his Master (“the Hanju-zip”; 『寒洲集』). This is not to say that he lived in the Hermit Nation. All his academic activities were battles against the overall crisis. He insisted on chu-li theory (主理説), because he thought that in order to revive State (社稷) and Moralities (人倫) the tradition of the learning of Chu-Li (朱李; Chuhsi朱子and Li Toege李退渓) had to be only clarified.

On the other hand, the Japanese Loyalist Shōin never insisted on metaphysical Li (理). If anything, it is better to say that he strongly adhered to the school of chu-ki (主気派). His theory and practice were based on the phenomenal world; the fact that Japan exists in inter-national society. He sought after the characteristic property of Japan in this world.

Although both Heo-Yu and Shōin argued for Zong-yong, their bases were different each other; chu-li and chu-ki. This fact mirrors the difference between Korean and Japanese Confucianism.

Key Words; Zongfa-yangi (尊華攘夷; Revere the China and expel the foreigners) and Zongwang-yangi (尊王攘夷; Revere the Emperor and expel the foreigners). The activists called these slogans Zong-yang (尊攘; Revere and Expel), Husan Heo-Yu (后山・許愈), YOSHIDA Shōin (吉田松陰), YAMAGATA Taika (山県太華), the Hanju school (寒洲学派), chu-li (主理), chu-ki (主気)


19世紀中葉、とりわけアヘン戦争以降、排外主義運動がアジアを席巻した。韓国と日本の排外主義者はしばしば似たようなスローガンを叫んだ。すなわち、「尊華攘夷」と「尊王攘夷」である。この活動家たちはこれらのスローガンを「尊攘」と略称した。「尊攘」思想は、排外主義のみならずナショナリズムでもあった(むろん、それは前近代的形態であるが)。本稿の目的は、韓国(后山・許愈: 1833-1904)と日本(吉田松陰): 1830-1859)における尊攘思想の比較研究である。

許愈は、彼の師である李寒洲によって樹立された寒洲学派の著名な韓末の学者である。当時韓国は、西洋や日本からの帝国主義的侵略に直面していた。まさに彼は激動の時代に生きていたのである。このような時代に、多くの儒学者が義兵を挙げていた一方で、彼はみずからの全精力を弟子の教戒と、『南冥集』や『理学綜要』の校正、そして師の選集である『寒洲集』の出版に捧げていたのである。このことは彼が「隠者の国」に生きていたことを意味するものではない。彼のすべての学術活動は、この全面的な危機に抗する「戦い」であった。彼は主理説を主張したが、それは彼が社稷と人倫を回復する手段には、ただ朱李(朱子と李退渓)の学統を明らかにすることだけであると考えたからである。

これに反して、日本の尊王家である松陰は形而上的な理を決して主張しなかった。むしろ彼は強硬な主気派と言っても良い。彼の理論と実践は現象世界――すなわち日本が「国際社会」の内に存しているという事実――に根拠していた。彼は、この世界における日本の固有性を模索し続けていたのである。

許愈と松陰とはともに尊攘を説いていたが、それらの根拠するところは相違していた。すなわち、主理と主気である。この事実は、韓国と日本の儒学における相違を映し出している。

2005年08月01日 (月)

今日のお題:幕末志士における読書――吉田松陰をめぐる同志的ネットワーク構築の一例として(明治維新史学会『明治維新史研究8・明治維新と文化』吉川弘文館、2005年8月)

   はじめに

近年、近世における読書に関する研究が盛んである。しかしこれらの研究の多くは、「なにが読まれたか」という書誌学的な問いから出発しているのではない。むしろ、若尾政希氏の「太平記読み」に関する論攷(『「太平記読み」の時代』平凡社1999年)にも代表されているように、あるテクストが「どのように読まれたか」、あるいは、ある人物が「どのように読書をしたか」を主題としている点で、これまでの文献解釈学的な方法論とは異なった新しい分析視点を思想史の分野に提供している。この意味で、近年の近世読書研究は、読書の存在形態の研究と言うことができるであろう。

幕末志士の一人である吉田松陰(1830(天保1)?1859(安政6))が、みずからの活動の一環として、大量の書籍を読破し、その抄録を作成したことはよく知られた事実である。とくにその読書活動が活発になるのが、1854(安政1)年に際来航したペリー艦隊への密航の罪によって投ぜられた獄中・幽囚中においてであった。それは、まさに松陰が、友人で門人の桂小五郎に宛てて「僕罪を獲て以来、首を図書に埋め、以為へらく天下の至楽、以て是れに尚ふるなし」(「桂小五郎に与ふる書」1857(安政4)年10月29日、『丁巳幽室文稿』、『吉田松陰全集』(大衆版)4巻138頁)と語った通りであって、その詳細な読書記録は、1854(安政1)年10月に始まる足かけ四年の『野山獄読書記』(以下『読書記』)に明らかである。

『読書記』に計上されている全読了冊数1460冊という膨大な書籍のなかには、もとより松陰の実家の蔵書もある程度含まれていたと考えられるが、その多くは実兄の杉梅太郎や松陰の友人たちの借本という形でもたらされたものであり、その記録の一部は『書物目録』や『借本録』に残っている。借本の多くは萩城下やその近郊の友人からのものであるが、中には、諸国遊歴を続ける安芸の一向勤王僧宇都宮黙霖が来萩した際に借りた山県大弐『柳子新論』のような事例もあり、借本を通じた松陰の交友関係の広さを示している。

その他にも松陰は、江戸藩邸大番手勤務の学友である久保清太郎を通じて、書籍の蒐集を依頼している。

「先師の文集之れあるべき事に存ぜられ候。是れ亦長原〔武〕へ御聞合せ下さるべく候。総じて先師赤穂謫後のもの、尤も得難き様に存ぜられ候。」(「久保清太郎宛」1856(安政3)年7月5日、7巻430頁)

先師とは、松陰が修めた山鹿流兵学の学祖・山鹿素行のことである。松陰は1856(安政3)年頃から山鹿素行へ回帰する傾向を見せており、この書籍の蒐集依頼はその一環と言える。さらに、ここで「聞合せ」されている長原武とは、大垣藩の陪臣であり、松陰が江戸留学の際に兵学修行をした山鹿素水塾の同窓であった。このように松陰は、獄中・幽囚中にありながらも、広範な人脈を有しており、それは書籍の入手のためだけではなく、一方でみずからの志を共有する人々とのネットワークとしても機能したのである。

松陰は長州藩内でもかなり遠距離に居住する人物と書籍の貸借を行っており、本稿はまず三田尻(現防府市)の下級官吏で蔵書家の岸御園と松陰との間における書籍貸借の実態から、それがさらに藩という枠組みを越えた人的ネットワークを構築する過程を明かにし、さらに、須佐(現萩市)の育英館学頭小国剛蔵との書籍貸借を通した幕末志士の同志的連帯の形成について論ずることを目的とするものである。このことは幕末志士における公共性の基礎となったその「志」なるものが、「尊王」や「攘夷」といった単なる観念的な言説などではなく、実際の具体的な関係の中で育まれていった事実を示すことになろう。

2005年04月01日 (金)

今日のお題:「第17章 蘭学の成立と内憂外患」(佐藤弘夫編集代表『概説日本思想史』ミネルヴァ書房、2005年04月)

 目 次
1 洋学と蘭学
 蘭学の成立
 『解体新書』の背景と意義
 蘭学の影響と世界観の拡大

2 経世家の登場と文化的ネットワークの形成
 経世家と幕藩体制の動揺
 軍事的経世論
 商業的経世論
 農業的経世論
 経世論の特徴

3 鎖国意識と後期水戸学の成立
 北方の脅威
 『鎖国論』
 対外的緊張の高まり
 水戸学の登場
 水戸学の思想とその影響

 じつに普通のことが書いてあります。教科書ですものね。

2005年03月01日 (火)

今日のお題:幕末における普遍と固有――吉田松陰と山県太華(日本思想史研究会『年報日本思想史』第4号2005年3月)

 東漸する西洋列強を中心とした「国際社会」の確立という世界史的状況を現前にした一九世紀後半の東アジアにおいて、そのいわゆる「国際社会」なるものの認識において、朱子学的普遍主義がはたした役割の大きさについては、しばしば論及されるところである。すなわち、「万国公法」(international law)の受容において、その根幹を支える「自然法」(natural law)の概念に関し、それが「性法」と訳されたことも相俟って、朱子学の「性即理」の観念が大きく貢献した。この点を早い時期から指摘した人物に、丸山真男がいる。

「この〔国家平等観念受容の〕媒介の役を果たしたのがほかならぬ儒教哲学である。とくに旧幕時代に正統的教学として君臨した朱子学の論理構成がこうした役割を果たした、ということは一つの歴史的イロニィに属する。ちょうどヨーロッパにおける国家平等の観念がストア主義とキリスト教に由来する自然法思想の背景の下に形成されたように、わが国において朱子学に内在する一種の自然法的観念が、諸国家の上にあって、諸国家を等しく規律するある規範(ノルム)が存在することを承認する媒介となった。」(1)

 もとよりこれは、丸山が朱子学を近世の正統イデオロギーであると考えていた時期の論攷であるが、その朱子学理解が改められたのちにおいても、朱子学を経由した「万国公法」・「国際社会」の受容という図式は残り、今日に至っている。

 たしかに、東アジアにおける「万国公法」(2)の理解に朱子学が果たした役割は否定できない。しかし、「万国公法」の基礎をなしている自然法が、「個人」における自然法のアナロジーとして構成されているという法思想的史背景を閑却し、ただその「公理」性をのみを受容してしまったことは、「万国公法」を人間が定めた法としてではなく、超越的な真理として理解することともなり、それゆえ、現実の「万国公法」の運用に際して、多くの問題を生じさせることとなったことも否定できない事実である(3)。

 すなわち「万国公法」の運用には「公理」としての普遍性と同時に、その法を実践する主体たる諸国家の固有性が理解されることが不可欠であった以上、その受容の問題は、単に普遍性の承認を照準とするのだけでは十分ではない。むしろ「日本」という自己を、「国際社会」において、他者たる「万国」に対峙させていこうとする自他認識の転回こそが問題とされなければならないのである(4)。

 本稿は、幕末の思想家である吉田松陰(一八三〇〈天保元〉?五九〈安政六〉)における普遍と固有の問題を、老朱子学者山県太華(一七八一〈天明元〉?一八六六〈慶応二〉)との論争から論ずることを目的とするものであり、このことは、幕末日本が「国際社会」という一箇の普遍に対し、いかに対応しようとしたのかを明らかにすることに資するものとなろう。

   註
(1)丸山真男「近代日本思想史における国家理性の問題」一九四九年、丸山真男『忠誠と反逆』一九九八年ちくま学芸文庫二四九頁。
(2)W・マーティン漢抄訳の『万国公法』(H・ウェートンElements of International Law 6ed.1855.)は一八六四年刊、翌年和刻。
(3)この傾向は、とくに朝鮮において強かった。それは、「万国公法」に裏切られるまでに、比較的時間を要したためでもある。金容九「朝鮮における万国公法の受容と適用」、『東アジア近代史』第二号一九九九年参照。
(4)幕末維新期における自他認識の転回については、拙稿「幕末維新期における自他認識の転回――吉田松陰を中心に」(『年報日本思想史』創刊号二〇〇二年)参照。

2005年03月01日 (火)

今日のお題:吉田松陰の「神勅」観――「教」から「理」へ、そして「信」へ(日本倫理学会『倫理学年報』第54集2005年3月)

   On YOSHIDA Shōin's view of “Shinchoku”(the divine Edict of Amaterasu Ōmikami or the Sun Goddess)

The purpose of this paper is to explicate a formation process of YOSHIDA Shōin's (an activist and royalist in the last days of the Tokugawa-regime 1830-1859) philosophy concerned with Shintō (the way of the gods), especially “Shinchoku”.

"This Reed-plain-1500-autumns-fair-rice-ear Land is the region which my descendants shall be lords of. Do thou, my August Grandchild, proceed thither and govern it. Go! And may prosperity attend thy dynasty, and may it, like Heaven and Earth, endure for ever"(“Nihongi” Trans. W. Aston. 1924. 1:77.) .

This is what is called “Tenjō-mukyū-no-Shinchoku” (the divine Edict of eternity as heaven and earth) promulgated by Amaterasu Ōmikami, who sent her grandson from heaven to earth (Japan) to found a dynasty “to rule eternally”. Shōin believed in “Shinchoku”, asserting that “every way of Kōkoku (the Empire of Tennō) originated in the age of the gods; therefore all Japanese subjects should believe in this myth (‘Kōmō-Sakki-hyōgo-no-hanpyō').” This paper provide an answer to the question as to why he came to believe in it.

In Shōin' s early period, he considered Shintō and “Shinchoku” an ideology to rule people. The reason why he came to believe in “Shinchoku” was that Kokugaku (Japan's “Native Studies”) had exerted a strong influence upon his thought. He read in MOTOORI Norinaga's (a pivotal scholar of Native Studies 1730-1801) “Naobi-no-Mitama” (the Spirit of Renovation) that “Shinchoku” had been the sacred promise which assured eternal independence of Japan. Since then, he came to regard “Shinchoku” not as a mere ideology but as the thesis that everyone has to believe in. It was this belief, that lay in his thought at the foundation of his Sonnō-jōi (Revere the Emperor and Expel the Barbarians) movement. Although it is generally accepted that “Shinchoku” was a political ideology in modern Japan's Emperor system, for Shōin the meaning of “Shinchoku” was completely different from that of modern Japan.


    吉田松陰の「神勅」(天照大神の聖勅)観について

本稿の目的は、吉田松陰(幕末の活動家・尊王家、1830-1859)の思想形成過程を、神道――とくに「神勅」に関して詳論することである。

「葦原の千五百秋の瑞穂の国は、是、吾が子孫の王たるべき地なり。爾皇孫、就でまして治せ。宝祚の隆まさむこと、当に天壌と窮り無けむ。」(坂本太郎他校注『日本書紀』岩波文庫1994年、1巻132頁)

これが、天照大神によって発せられたいわゆる「天壌無窮の神勅」である。この神は、みずからの孫を、永遠に統治される王朝の樹立のために、高天原から大地(日本)に降したのであった。松陰はこの「神勅」を信じ、それゆえ次のように主張したのである。「皇国の道悉く神代に原づく。則ち此の巻〔『日本書紀』神代巻〕は臣子の宜しく信奉すべき所なり」(「講孟箚記評語の反評」)と。本稿は、彼がなぜ「神勅」を信じるに至ったのかという疑問に解答を与えるものである。

初期松陰において、神道や「神勅」は人民統治のためのイデオロギーと考えられていた。彼が「神勅」を信じるようになった理由は、国学が彼に強い影響を与えたからである。彼は、本居宣長(著名な国学者、1730-1801)の『直昆霊』を読み、「神勅」が日本に永遠の独立を保証する神聖な約束であることを知った。それゆえ彼は、「神勅」をたんなるイデオロギーとしてではなく、すべてのものが信ずべきテーゼとして考えるに至ったのである。この「信」こそが、彼の思想においてその尊王攘夷運動の基礎をなした。周知のように、「神勅」は近代日本天皇制の政治的イデオロギーであった。しかし松陰にとっての「神勅」の意味は、近代日本のそれとは全く異なっていたのである。

2004年04月01日 (木)

今日のお題:『新論』受容の一形態――吉田松陰を中心に(佐々木寬司編『国民国家形成期の地域社会――近代茨城地域史の諸相』岩田書院2004年4月)

 松陰と水戸学の極めて密接な関係はすでに指摘されており、通説では、彼の平戸遊学(1850(嘉永3)年)における『新論』との接触をもって水戸学の感化、さらには日本という自己意識の形成と見做してきた。だが松陰へのその感化は、水戸遊学における会沢正志斎らとの面談(計7回・内1回は不在)の結果であり、それ以前の松陰は『新論』に触れながらも、そこから顕著な感化を受けることはなかった。我々は、松陰が水戸学にたどり着くまでの意外に長い道のりを見るであろう。

 『新論』は松陰の思想形成――とりわけ日本という自己意識の形成――に大きな役割を果たしたが、それは水戸学、とくに個人的に影響を受けた会沢本来の思想とは、微妙なズレをはらむものであった。そしてそのズレは、やがて松陰を水戸学的尊王論から距離を置かせ、彼に国学という新たな思想上の転回をもたらしたのである。

 『新論』は単に水戸学という学派の一著作に留まらず、日本を語るための〈言説〉を用意した点で、幕末志士たちの出発点の一つとなった。そして彼らは、それをさらに〈読み替える〉ことで、新たな日本の姿を模索していったのであり、このことをわれわれは、松陰の『新論』の受容と変容の過程から明瞭に見て取ることができるのである。

2004年01月01日 (木)

今日のお題:論争の書としての『講孟余話』――吉田松陰と山県太華、論争の一年有半(歴史科学協議会『歴史評論』645号2004年)

論争の書としての『講孟余話』――吉田松陰と山県太華、論争の一年有半(歴史科学協議会『歴史評論』645号2004年)

 世界市場の樹立が、環太平洋諸地域の植民地化と中国と日本の開国とによって完了するようにみえた19世紀中葉における象徴的事件の一つが、ペリー・プチャーチン両艦隊の日本来航であったことは誰しも認めるところであろう。この世界史的状況に臨み、「五大州を周遊せんと欲」し、1854(安政元)年に再来航したペリー艦隊への密航計画を企てたのが吉田松陰(1830(天保元)?1859(安政6)年)である。周知の通りこの企ては失敗に終わり、海外渡航の咎をもって罪せられた松陰は、永い幽囚生活に入った。

 長州藩野山獄に投ぜられた松陰は、荒廃した獄風の改善の一環として翌年4月12日より『孟子』講義を、さらに6月13日より同輪読会を催した。『講孟余話』(以下『余話』)は、その際の所感・批評をまとめたものである。

 松陰論において『余話』が重要視されるのは、それが松陰の主著であるのみならず、松陰の「国体論」を最もよく表現する著作であるからである。『余話』は「道」の普遍性に対する「国体」の固有性の優越を、次のように強く説く。

「羊棗と膾炙、姓と名、一は同じく、一は独りなり。同じきを食して独りを食せず。同じきを諱まずして独りを諱む。…道は天下公共の道にして所謂同なり。国体は一国の体にして所謂独なり。」(『講孟余話』「尽心下三六」1856(安政3)年6月10日)

 これは、亡父を偲び、その個人的嗜好であった羊棗を嗜まないことは、父の名(「独」)を諱み、姓(「同」)を諱まないことと同様であるという『孟子』の一節を、松陰一流の読み替えをもって敷衍したものである。この文にはさらに、道の絶対的な普遍性を説くものへの激烈な批判が続く。

「然るに一老先生の説の如く、道は天地の間一理にして、其の大原は天より出づ、我れと人との差なく、我が国と他の国との別なしと云ひて、皇国の君臣を漢土の君臣と同一に論ずるは、余が万々服せざる所なり。」(同前)

 これこそ、「その後明治・大正・昭和とつづいたさまざまな形の国体論争の中でも、もっとも生彩あり、情熱のこもったものとして私には敬重すべきものに見える」と橋川文三氏によって評された一文である。この論争の敵手である「一老先生」が、当時長州藩藩校の明倫館前学頭であった山県太華(1781(天明元)?1866(慶応2)年)であることは論を俟たない。

 それでは、松陰がここに引く「一老先生の説」とは、いったいどこに典拠を置いているのであろうか。

 それは、『余話』に対する評として著された太華の『講孟箚記評語』(上)の冒頭部にある、「道は天地の間一理にして、其の大原は天より出づ。我れと人との差なく、我が国と他の国の別なし」という一文に他ならない。しかしこのように考えたとき、『余話』に関する通説的理解との矛盾が現れてくる。

 通説では、『余話』に対する論駁書としての太華の『講孟箚記評語』(以下『評語』)は、『余話』完成後に著されたとされる。例えば、奈良本辰也氏は、『余話』を抄録した編著『吉田松陰集』(一九六九年)で、「太華が論駁した『講孟余話』の本文を各章毎に分けて掲げ、次に太華の文、そして松陰の更なる反評、という順序に」再構成することで、「論争の書」としての『余話』の理解に大きく寄与したが、この順序の立て方は明らかに、『余話』(松陰)―『評語』(太華)―「反評」(松陰)という直線的(リニアー)な順序を前提としている。それを裏付けるように氏は、この『余話』の解説文において、『余話』の成立事情と完成の叙述の後に、「彼はこれを藩の大儒山県太華にみて貰って批判を仰いだ。ところが太華は、これを散々にやっつけた」と続けているのである。

 だが、『余話』完成後に執筆されたとされる『評語』の文が『余話』に引かれ、かつ論駁されることは、奈良本氏をはじめとした通説的理解と明らかに矛盾する。この事実を整合的に理解するには、通説をひとたび抛棄し、『余話』完成以前に松陰が『評語』を読んだと考える必要がある。本稿はこの仮説を論証する作業を通じ、歴史上極めて著名な松陰―太華論争の実際の過程を再現するものである。

 本稿が『余話』の成立過程を考察するのは、単にそれが松陰の「主著」であるからではない。かつて藤田省三氏は、松陰を体系思想家ではなく「状況的」な存在としてとらえ、「講孟余話の思想構造の分析」といった作品論的方法での松陰論を拒否した。本稿もまた氏の見解を支持するものであって、『余話』を一箇の体系的著作としてではなく、論争により成立する過程として把握することで、つねに変化する「状況的」存在としての松陰の思想的展開の過程を明らかにすることを目指す。思想家は初めからみずからの思想を樹立した状態でこの世に生を稟けるのではない。思想は人間の歴史的・社会的営為の上に形成されるものであり、その意味で本稿は、「松陰の思想構造の分析」ではなく、「思想形成の分析」の試金石となるものなのである。

2003年10月01日 (水)

今日のお題:吉田松陰『野山獄読書記』の基礎的考察(東北大学文学会『文化』67号2003年)

 幕末志士の中でもとくにその激烈な言動によって知られる吉田松陰(1830(天保元)?59(安政6))は、一方でペリー艦隊密航(1854(安政元)年)の罪による投獄後の後半生を幽囚の内に過ごした人物でもある。
 一年有余の獄中における松陰は、多くの革命家が行ったような革命理論の構築や政治宣言の起草などといったこととは無縁であった。むしろ彼は、自らが罪人であることを自覚し、その罪人である自分が生きていられることは、「君父の余恩」「日月の余光」「人生の余命」という「三余」の賜物と考え、その感謝の念を「三余読書」ということばに託し、日々を読書に費やしたのである。

 この獄中(およびその後の幽囚)での足掛け四年にわたる読書記録を詳細に収めたものが、『野山獄読書記』(以下『読書記』)である。『読書記』は、『吉田松陰全集』に収められ、また精巧な写真版(貴重図書影本刊行会刊1931年)も、全集編纂に先立って刊行されており、改めて「発掘」されるべき文献ではない。しかし今回あえて『読書記』を取り上げたのは、この松陰の思想変遷の軌跡を如実に表現しているこの書を、先行研究がほとんど注目してこなかったからである。

 むろん、『読書記』がまったく無視されてきた無名の書であったわけではないことは、写真版の刊行という事実からも容易に理解できる。戦前における松陰研究の「古典」とも言うべき広瀬豊『吉田松陰の研究』(1943年)も、「松陰の修養の糧を知り、又出獄後は門人に教へた書名をも知ることができる」と高い評価を与えていた。しかし、『読書記』自体を対象とした考察は皆無に近く、『吉田松陰の研究』が松陰の読了書籍をかなり詳細に列挙している中に『読書記』の記載を用いている他は、敗戦後に発表された初めての体系的松陰論である奈良本辰也氏の『吉田松陰』(1951年)を挙げるに留まる。

 このような先行研究の状況を鑑み、筆者は『読書記』における松陰の読了書籍を分類・データベース化し、人文科学におけるテキストデータベースの利用の課題と問題点を検討し、また拙稿「吉田松陰における『転回』――水戸学から国学へ」で、その成果の一部を用いた。

 同拙稿は、松陰における1856(安政3)年8月の「転回」が、海防論から水戸学的尊王論への「転回」であったという通説に対し、『読書記』に現れた松陰の読書傾向が、これを界として、水戸学から国学へと劇的に変化したことをとらえ、それがむしろ国学的尊王論への「転回」であったことを、松陰の同時期の著作における主張の変化と併せて明らかにしたものである。

 しかし同稿は、その問題設定上、「尊王」という枠組みにおける計量的分析に留まるものであった。本稿は『読書記』全体を通して、安政期の松陰における思想構造を「読書」という新たな側面から再検討するための基礎作業にあたるものである。したがって本稿では具体的分析にまで至らないことを付言しておきたい。


『野山獄読書記』における読了冊数の推移
    年 冊数
   1854 106
   1855 493
   1856 505
   1857 356
   総計 1460

2003年01月01日 (水)

今日のお題:吉田松陰における「忠誠」の転回――幕末維新期における「家国」秩序の超克(『日本思想史研究』23号・2001年3月)

 本稿は幕末維新期の「志士」たちの「忠誠」(*)の問題について、吉田松陰という注目すべき思想家を取り上げて論じたものである。

(*)そもそも「忠誠」が現在のようにloyaltyの意味で用いられるようになったのはそう古いことではない。近代以前には「忠誠」ということばはあまり用いられず、また用いられた場合でもloyaltyではなくむしろhonestyの意味で用いられることが普通であった。(なお、井上哲次郎『哲学字彙』(1881年)でも、honestyの訳語として「忠誠」が用いられている。)したがって、ここで「忠誠」の語を近代的な意味で用いるのは、これを主観的な意識としての「忠」と弁別し、客観的な分析概念として用いているのである。

 藩主から天皇への「忠誠」の移行、あるいは封建的分邦としての藩国家から近代的統一態としての日本国家への「忠誠」の移行の軌跡が、単純に近代的思考によって導かれるのかという疑問から本稿は出発した。当時の志士たちは、その多くが封建制内部にその出自を有しており、その意味で天皇や日本国家への移行といった封建制の自己否定の過程は、単なる主君の交代や所属対象の空間的拡大によってなされるものではないからである。

 松陰自身も、その晩年に「亡邸・入海以来、近日勤王の諸策に至るまで、過激なりと雖も、過憤なりと雖も、吾れの心赤、一毫も吾が公〔藩主〕に負かず。」(「知己難言」1859(安政6)年5月2日)と語っていたように、主観的には藩主への「忠」を最後まで堅持し続けていたのであり、天皇という新しい「忠誠」対象へ全的に移行しすることで既存秩序を超克したのではない。むしろ松陰は、重臣や有司によって構成される既存の「家国」秩序を、藩主の絶対化を強烈に主張することで超克し、新しい秩序を構築しようとしたのである。その意味で松陰の「忠」は、「藩主親政・君臣一体」という封建倫理の正統的立場から形成されていたのである。


 本稿では松陰の「忠誠」の転回を、初期(亡命まで)・中期(投獄まで)・後期(刑死まで)の各時期に分け、さらに松陰刑死後にその「忠誠」が彼れの弟子たちによってどのように受容・変容されていったかを論じた。

 初期松陰は、自らを長州藩(「御家」)の山鹿流兵学師範(「家」)である吉田寅次郎として自らをアイデンティファイしており、その「忠誠」はこの主君の「御家」と家臣の「家」によって歴史的連続性の内に形作られる観念的な「家国」において展開されていた。しかし1851(嘉永4)年末に敢行した亡命(脱藩)の結果、御家人召放(浪人にされること)という処分を下された松陰は、自らが「忠誠」の対象と規定していた「家国」秩序から逸脱することとなり、新たな「忠誠」対象を模索することとなる。

 この模索の時期が中期である。浪人の身として諸国遊学中にペリー艦隊の来航という事件に遭遇した松陰は、もはや藩士ではないにも関わらず、「将及私言」(1853(嘉永6)年)を始めとして数本の上書を提出した。本稿ではこれらの上書のうち「将及私言」を取り上げて、松陰が「主君」に対する「忠」を尽すことで、自らをアイデンティファイさせようとした傾向を指摘し、この時期の松陰の「忠誠」対象がかつての「家国」から「主君」へとシフトしつつあったことを明らかにした。

 松陰のこの「忠誠」の在り方は、実際には重臣や有司の合議によって運営され、藩主は時に押し込められる可能性もあった近世藩国家の「国制」(笠谷和比古氏)を考えた場合、極めて特殊でありながら、かつ封建制倫理の根本的な部分に基づいていると言える。この「忠誠」の在り方がいっそう深められたのが後期である。

 1854(安政元)年におけるペリー艦隊密航失敗により逮捕・投獄された幽囚生活の時代が後期にあたり、この時期に松陰における藩主の絶対化の傾向はもっとも強くなった。

 獄中にあっても松陰は天下国家を語ることをやめようとはしなかった。幽囚の松陰が天下国家を語る背景には、「已に義を忠孝に失へども、尚ほ食を家国に仰ぐ。是れ君父の余恩に非ずや。」(「三余説」1855(安政2)年)というような、過剰な報恩の意識があり、この「恩」こそすでに「家国」秩序から排除された「世の棄物」としての松陰が、新しい「忠誠」対象を求めた結果再発見されたものにほかならない。そしてこれ以降、「君恩」(世禄ではなくこの防長二国に生れたことそれ自体を指している)に報いる存在として、松陰は自らをアイデンティファイさせるに至ったのである。

 このような「君恩」に対する絶対的な「忠」の意識に基づく自己の定位という「忠誠」のありかたは、松陰刑死後の長州藩尊攘派にも共有されたものであった。長州藩内の「藩主の上意の下における、「有司」グループの排他的結束の形成」(井上勝生氏)は、まさしく松陰の主張する藩主の絶対化に基づいており、この「『有司』グループ」は長州藩内の尊攘派を基盤として、既存の秩序としての「家国」の保全を藩主の命に優越させるような「俗論派」に対抗することで形成されていったものであった。

 藩主への絶対的な「忠」によって自己を自己たらしめようとする松陰の「忠誠」の在り方は、本来「家国」秩序の内に位置づけられていた藩主をそこから切り離す点で、客観的に見れば、確かに異常な「忠」の暴走であり、その秩序の内にあるものにとっては、「不義不忠」と見做されてしかるべきものであった。しかし、自己否定ともいうべき近世封建制それ自体の否定は、単純に「一君万民」の天皇の存在によってのみ担保されるものではなく、思想的にはむしろ封建制倫理の文脈の内において、「家国」から藩主と藩政府とを分離し、前者への絶対的な「忠」を媒介として後者を否定するという過程を経ることで初めてなされ得たのであり、松陰の描いた「忠誠」の転回の軌跡はまさにそのことを示していると結論するものである。

2003年01月01日 (水)

今日のお題:吉田松陰における対外観 ――「万国公法」以前の国際秩序認識(日本文芸研究会『文芸研究』152号2001年)

本稿は、自然法(「性法」natural law)の思想に基づく「万国公法」受容以前の幕末日本における対外観の転回を、安政期の吉田松陰を中心として考察することを目的としたものである。

松陰の強烈な尊攘主義の言動は、しばしば自民族中心主義の典型と指摘されてきた。しかし松陰は、日本が世界の一部であることを自覚し、諸国家が各々自足しつつ、かつ同時に相互に関連し合う存在であることを認識していた。そしてそれは西洋列強に対していかに対等な国家間関係を確保するか、という現実的な問いとして現れた。松陰がこの問いにどのように答えようとしたかを、本稿は、松陰の著書『外蕃通略』を初めとした松陰の外交文書に関する著述を通して検討し、そこに「敵国」・「敵体」という儒学的概念の「読み替え」があったことを指摘した。

「敵国」とはhostile countryの謂ではなく、匹敵を意味する「敵体」の礼をもって交わる国のことである。独立国としての「帝国」とこれに従属する「王国」との二種類に国家を弁別した松陰は、独立国である帝国日本が、同様に独立国である西洋列強に対して「敵体」であるべきことを主張した。

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(1)帝国…日本と対等な国家・「敵国」
(2)王国…帝国の従属国および植民地
(3)争地・交地…無主の地・辺境

そして人臣たる征夷大将軍によって国内外の政治が執行されている現状を批判して、天皇を真に内外通じて「元首」とする国家体制論を展開したのである。佐久間象山や横井小楠も同様に国家間の対等を説いたが、幕府を「朝廷」や「廟堂」と呼び、あくまで外交主体として考えていたように、国家体制それ自体の変革を企図してはいなかった点で松陰と異なっていた。

松陰は西洋列強の東漸という世界史的状況に臨んで、自ら有する既存の思想体系の中にあった「敵体」という儒学的概念を〈諸〉帝国間の「敵体」という観念で読み替えることで、これを理解したのであり、それは「国際社会」への強制編入に対する一つの抵抗思想を生み、また同時に天皇を元首とした日本の新しい国家像を形成する出発点となったのである。

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