2003年01月01日 (水)

今日のお題:吉田松陰における「転回」――水戸学から国学へ(東北史学会『歴史』98号2002年)

On "Revolution" of YOSHIDA Shoin (吉田松陰).
From the Mito School (水戸学) to the Native Studies(国学)
KIRIHARA Kenshin

The battle cry that ushered in the modern era in Japan was "Revere the Emperor and expel the barbarians" (尊王攘夷) . YOSHIDA Shoin (1830-1859) was an activist and royalist in the last days of the Tokugawa regime. That he was strongly influenced to the Mito School (水戸学) is already a known fact. He met AIZAWA Seishisai (会沢正志斎) in Mito and was taught the idea of Japan as a unified nation (Kokoku; 皇国). Many have argued about when he was under the Mito School influence until. This paper points out that Shoin's thought shifted greatly from the Mito School to the Native Studies School (国学) after his thought underwent a 'Copernican revolution' (August 1856; thus named by MINAMOTO Ryoen "A History of Thought in Tokugawa-period" 源了圓『徳川思想小史』). This argument supported by the following two aspects.


1) An analyses of "Record of Readings in Noyama-Prison" (『野山獄読書記』) indicates his tendency to read works of the Mito School shifts to works of the Native Studies. (Chapter 2)
2) After the "Revolution",Shoin's letters addressed to his friend AKAGAWA Awami (赤川淡水; He had stayed in Mito to study under AIZAWA.) denounced Awami as not a true loyalist. (Chapter 3)

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Also, Chapter 4 elucidates Shoin's distinction of? the Native Studies from the Mito School. The Mito School based Japan's "raison d'etre" on Confucianism (especially "The righteousness of the morals, loyalty and filial piety" (「君臣父子の大倫の正しき」こと) ), while the Native Studies based it on the Emperor's existence itself and an Imperial edict of Amaterasu Omikami (天照大神の神勅). Following the "Revolution", Shoin adopted this view and acted on it.

近代日本の到来を告げたスローガンは尊王攘夷であった。吉田松陰(1830-1859)は、幕末期の活動家・尊王家であった。かれが水戸学に強く影響を受けたことはすでに知られた事実である。彼は水戸で会沢正志斎に会い、統一国家(皇国)としての日本の観念を教えられた。多くのひとが、彼がいつまで水戸学の影響下にあったについて論じている。本論文は、彼の思想が「コペルニクス的転回」(1856年8月――源了圓『徳川思想小史』)を経たのち、水戸学から国学へ大きくシフトしたことを指摘した。これは次の二つの面から論証された。(第二節と第三節でこれらを述べた。)

1) 『野山獄読書記』の分析が、彼の読書傾向が水戸学の著作から国学の著作へ移行したことを明らかにした。
2) 「転回」後、彼の友人である赤川淡水(彼は、会沢の下で学ぶために水戸に留学していた。)に宛てた松陰の手紙は、淡水を真の尊王家ではないとして糾弾していた。


尊王論関係読書傾向の推移
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そして、第四節では、松陰の理解において国学が水戸学とどこが相違しているかを明らかにした。水戸学は日本の存在理由を儒学(とりわけ「君臣父子の大倫の正しき」こと)に基づいていた。これに対して、国学は天皇の存在それ自体に基づいていた。「転回」後の松陰は、この主張を受け入れて活動していったのである。

2003年01月01日 (水)

今日のお題:幕末維新期における自他認識の転回――吉田松陰を中心に(日本思想史研究会『年報日本思想史』創刊号2002年)

幕末維新期における自他認識の転回――吉田松陰を中心に(日本思想史研究会『年報日本思想史』創刊号2002年3月)

 本稿は、安政期以前の吉田松陰の思想形成の諸段階を詳細に検討することで、〈長州藩〉の〈山鹿流兵学師範〉として自己規定されていた彼が、東漸する西洋列強の脅威を知ることにより、自己(日本同時にそれは松陰自身である)および他者(西洋諸国)に対する認識が大きく転回していった過程を明らかにしたものである(安政期以後については拙稿「吉田松陰の対外観」に譲る)。

 ここで注意すべきことは、この「西洋列強の脅威」なるものが、直接的に「国際社会」の認識やこれに対する統一体としての「日本」の自覚を松陰にもたらすものではなかったという事実である。このことは、しばしば抽象的な「外圧」なるものが、日本の近代化をもたらしたというような図式的な幕末維新史像に修正を求めるものである。

 この自他に対する認識の転回は、その認識をもたらす諸観念(思想)との文字通り衝撃的な邂逅によりなされたものであった。それ故、この自己と他者に対する認識の転回は、必ずしも同時並行的に生じるものではなく、幾許かのタイムラグを伴う。松陰の場合は他者(西洋)認識の転回が自己(日本)認識の転回に先立っていたために、彼はこの新しく認識された他者に対し、「兵学者としての自分が守るべきもの(=自己同一の対象)」を「方寸錯乱」しながら模索していたのであり、「日本」の自覚――特に「皇国」という全体性の観念――に到達するには、少からぬ時間を要したのである。

 本稿では松陰の思想形成の諸段階に沿い、以下のようにその自他認識の転回を考察した。

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1 長州藩兵学師範期 この時期の松陰は、アヘン戦争以後の「異賊共取囲」む「我が神州」という国際的状況を知識としては知りながらも、日本全体を防衛する意識を有することはなかった。松陰の意識はあくまで防長二国という部分を出ることはなく、「我が国砲術の精確なる事遠く西洋夷に勝り候」(上書「水陸戦略」1849(嘉永2)年)と言うように自らの兵学に絶大な信頼を寄せていた。だがこの信頼は崩壊の時を迎える。彼は「西夷銃砲」の威力を知るのである。

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2 西遊期(平戸・長崎留学) この西遊において松陰は、実物の蘭船に乗船しその大きさを知った。それは商船であるにもかかわらず、6門もの砲を構える巨大堅牢な船であり、かつて「鉅大なる程吾が的になり易く大いに好む所」(「水陸戦略」)と述べた松陰の期待を少なからず裏切るものであった。またこの地で松陰は多くの海外事情書をむさぼるように読んだが、その中でもっとも彼に影響を与えたのがアヘン戦争の実態――清国の徹底的な敗北――を赤裸々に描いた魏源『聖武記附録』であった。

 松陰は『聖武記附録』中の「徒に中華を侈張するを知り、未だ寰瀛の大なるを観ず」を「佳語」とし、「夫れ外夷を制馭する者は、必ず先ず夷情を洞ふ」べきだとする意見に賛同している。そこには、もはや「外夷」を単なる異物としてではなく、一箇の脅威として――自らに対峙する他者として――見做す態度が生まれていたのである。

 この蘭船体験と『聖武記附録』とは、松陰が信頼していた伝統的な和流砲術の敗北を宣告するものにほかならなかった。魏源は伝統兵学に固執することの無意味さを松陰に突き付けたのであり、この衝撃は松陰を「巨艦巨熕」製造を指向させるに至った。平戸において松陰は大艦巨砲主義へ転向したと言ってもよい。

 平戸において松陰は、明確な脅威としての「西洋」という他者を認識し始めたものの、脅かされる自己(=守るべき自己)について認識するには――ネイションとしての「日本」を自覚するには――まだ時間が必要であった。

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3 江戸遊学期 江戸遊学中の松陰は「学問迚も何一つ出来候事之れなく…方寸錯乱如何ぞや」(「兄杉梅太郎宛」1851(嘉永4)年8月17日)と叫びながら、「武を学ぶの意」(=守るべき自己)を模索し続けていた。しかし当時の松陰は、歴史と言えばなお「漢土」の「二十一史」であり、「御藩の人は日本の事に暗し」と指摘され、「私輩国命を辱むる段汗背に堪へず」と反省しながらも、「未だ及ぶに暇あらず」と必ずしも日本を語るための言説を積極的に摂取することはなかったのである。松陰がこの言説を積極的に接種するに至るには、脱藩後の東北行における水戸学との邂逅を俟たねばならなかった。

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4 水戸遊学期 水戸で会沢正志斎と交わった松陰は「身皇国に生まれて、皇国の皇国たる所以を知らざれば、何を以てか天地に立たん」(「来原良三に復する書」1852(嘉永5)年7月以降)という強い自負を得た。この「皇国の皇国たる所以」という観念こそ松陰に「ネイションとしての自己意識」(=「日本」の自覚)を与えたものである。そして「日本歴史」を耽読した松陰は、兵学者としての自らの存在意義を「長州藩」を越えた「皇国」を守る点に求めるに至ったのである。ここに封建的分邦に生まれ育った長州藩兵学師範吉田大次郎個人の自己意識の拡大(藩国家から日本国家へ)を見出すことが出来よう。

 しかしこの「皇国」を語る場合でも、この時期の松陰にとって「尊王」がまだ重要な実践課題ではなかったことは注目すべき点である。すなわち「皇国の皇国たる所以」としての「聖天子蛮夷を懾服するの雄略」は「皇国」を「皇国」たらしめる方法であっても「皇国」を「皇国」たらしめる理由ではなかった。万世一系の天皇は「皇国」の光輝を弥増す存在であっても、天皇がその淵源であると松陰は見ていなかったのである。松陰にとって天皇は天皇であるが故に尊いのではなく、桓武天皇のように「蛮夷を懾服するの雄略」をなすが故に尊いのであった。このような天皇観は、のちに「コペルニクス的転回」(源了圓『徳川思想小史』)を遂げる。われわれのよく知る松陰の激烈な尊攘家としての性格は、これ以降顕著に現れてくる。ただしこの「転回」についての考察は拙稿「吉田松陰の『転回』」に譲る。

5 ペリー艦隊来航以後 ペリー艦隊の来航という現実の脅威に臨み、松陰は藩主に「将及私言」を上書している。そこでは西洋兵学の全面的な導入と挙国一致による国防体制の確立が高らかに謳われており、封建的分邦の意識はもはや姿を消していた。

 第二次ペリー艦隊に松陰は密航を試みたが、周知の通りそれは失敗に終る。松陰をこの挙に駆り立てた背景には「彼れを知るを以て要と為す」という兵学者としての態度、さらには「外夷を制馭する者は、必ず先ず夷情を洞ふ」というあの魏源の主張があった。ペリー・プチャーチンを「海外三傑」のうちの二人などと江戸の人士が騒ぐのも、自らの無知を知らないことに由来するのだと喝破する松陰の眼差しは、現前する艦隊やその指揮官にではなく、むしろその背後にあるアメリカやロシアといった諸国家に対して向けられている。松陰にとってこれら諸国家は、もはや排除されるべき異物ではなく、自らに対峙する他者として、対等に認識される存在となっていた。この諸国家との対等の観念こそ、松陰を当時の攘夷論の大勢から大きく異ならしめているものであった。

まとめ 松陰は、まず平戸において他者(=西洋)の存在を認識し、そして水戸において「ネイションとしての自己意識」をもたらす観念に触れた。この自己と他者とに対する認識が二つながら相俟って諸国家間の対等という観念へと松陰を導いたのであり、そこには「彼を知り己を知る」兵学的思考が、西洋に対する知識と日本に対する意識とを架橋するものとして強く作用していたと結論するものである。

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