2004年04月01日 (木)

今日のお題:『新論』受容の一形態――吉田松陰を中心に(佐々木寬司編『国民国家形成期の地域社会――近代茨城地域史の諸相』岩田書院2004年4月)

 松陰と水戸学の極めて密接な関係はすでに指摘されており、通説では、彼の平戸遊学(1850(嘉永3)年)における『新論』との接触をもって水戸学の感化、さらには日本という自己意識の形成と見做してきた。だが松陰へのその感化は、水戸遊学における会沢正志斎らとの面談(計7回・内1回は不在)の結果であり、それ以前の松陰は『新論』に触れながらも、そこから顕著な感化を受けることはなかった。我々は、松陰が水戸学にたどり着くまでの意外に長い道のりを見るであろう。

 『新論』は松陰の思想形成――とりわけ日本という自己意識の形成――に大きな役割を果たしたが、それは水戸学、とくに個人的に影響を受けた会沢本来の思想とは、微妙なズレをはらむものであった。そしてそのズレは、やがて松陰を水戸学的尊王論から距離を置かせ、彼に国学という新たな思想上の転回をもたらしたのである。

 『新論』は単に水戸学という学派の一著作に留まらず、日本を語るための〈言説〉を用意した点で、幕末志士たちの出発点の一つとなった。そして彼らは、それをさらに〈読み替える〉ことで、新たな日本の姿を模索していったのであり、このことをわれわれは、松陰の『新論』の受容と変容の過程から明瞭に見て取ることができるのである。

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