今日のお題:Calm and Storm in the Pacific: International Aid and Trans-Pacific Relations 1900-1931(Trans-Pacific Relations: East Asia and the United States in the 19th and Early 20th Centuries, A Conference to be held at Princeton on September 8th, 9th, and 10th 2006)
要旨:太平洋の嵐と凪――国際援助と太平洋両岸関係:1900?1931年
19世紀中葉以前の太平洋は、いまだ世界市場のうちに取り込まれていなかった。地球規模の世界市場を最後につないだ存在としての太平洋は、ときに波高く、ときに凪ぎ、ときに戦場であった。この論文は、太平洋両岸におけるサンフランシスコ大地震(1906年)と関東大震災(1923年)に対する国際人道援助の歴史を通した太平洋を越えた非政府外交の研究である。
サンフランシスコ大地震に対する人道援助は渋沢栄一(1840?1931年)によって提唱された「国民外交」(非政府外交)の最初のケースでもあった。彼は金子堅太郎(1853?1942年)とともに義捐金の募集を呼びかけ、最終的に日本の義捐金は日本以外の国々から送られたそれの全体を上回る額となった。彼らがこの義捐金を通した国民外交を展開した背景には、人道的動機とともに良好な日米関係の形成のためには米国の世論を親日的にする必要があると理解したからであった。
この日露戦争の莫大な戦費で疲弊した極東の島国からの多大な義捐金に対して、多くの米国民は賞賛の声を挙げたが、しかし地震の半年後に、まさにそのサンフランシスコの教育委員会が、日本人学童隔離問題を引き起こした。日本の実業界はこの排日運動の原因を労働問題と日本人に対する文化的「誤解」にあると考えていたが、その背景には抜き差しがたい人種的偏見――「黄禍論」――が存在していたことは否定しがたい事実であった。
この「黄禍論」に対する処方箋として、渋沢は「国民外交」を通した経済的・文化的交流による相互理解によってこの「誤解」を解消しようとしたのである。その一つの成果が、日米実業団の相互訪問(1908/1909年)であり、その後も日米同志会(1913年)、日米関係委員会(1916年)、日米有志協議会(1920年)の設立・運営に関与したのである。そしてこの彼の努力は、また別の巨大地震において結実することとなる。すなわち関東大震災(1923年)である。
大震災直後から、多くの国が国際援助を被災者に与えた。最大の義捐金は米国から来たもので、全体の三分の二を占めた。米国人の多くがサンフランシスコの返礼として募金したのである。そして巨大だっただけではなく、素早かった米国の義捐金は、多くの日本の人々によって賞賛された。米国の行動は多くの日本人に好感を与えるものであり、それは国民外交の効果にほかならなかった。
この悲惨な災害に直面した人々によって口にされたことばが、「禍転じて福となせ」であり、国民外交の提唱者によっても唱えられた。金子堅太郎はこの地震を、「第二の維新」を実施する機会でもあると述べ、この機会に、日本と米国のより強固な関係を作ることを渋沢栄一にあてた書簡において主張している。金子は、この帝都復興事業を米国経済の市場として提供することを厭わなかったのである。金子の計画に賛同した渋沢は、活発に米国の企業家にむけて義捐金と対日投資を呼びかけた。米国との友好は彼らにとっての「転じた福」の一つであった。
しかしながら、彼らの努力の成果としてのこの友好的な国際精神は、再び踏みにじられた。すなわち翌1924年に米国連邦議会が、日本からのすべての移民を完全に禁止する移民制限法を通過させたのである。
米国での反日感情の嵐に対して、渋沢はもはや「策無し」と言わざるを得なくなった。しかし彼は、落胆はしたものの、多くの日本人のように激しい怒りを維持し続けることはなかった。彼は自分がなし得ることを模索し、そしてそれを実行した。それは、日本の激昂した大衆感情を落ち着けさせることであった。その後もこの理不尽な嵐に対し、渋沢はあくまで理性的に抵抗した。彼は太平洋問題調査会会長に就任し(1925年)、静岡県下田にT・ハリスの記念碑を建て、人形外交を行い(1927年)、日米交換教授の歓送迎会をしばしば主催した。彼はその最期まで、おのれの全精力を日本と米国の友好のために捧げたのである。
19世紀中葉以前の太平洋は、いまだ世界市場のうちに取り込まれていなかった。地球規模の世界市場を最後につないだ存在としての太平洋は、ときに波高く、ときに凪ぎ、ときに戦場であった。この論文は、太平洋両岸におけるサンフランシスコ大地震(1906年)と関東大震災(1923年)に対する国際人道援助の歴史を通した太平洋を越えた非政府外交の研究である。
サンフランシスコ大地震に対する人道援助は渋沢栄一(1840?1931年)によって提唱された「国民外交」(非政府外交)の最初のケースでもあった。彼は金子堅太郎(1853?1942年)とともに義捐金の募集を呼びかけ、最終的に日本の義捐金は日本以外の国々から送られたそれの全体を上回る額となった。彼らがこの義捐金を通した国民外交を展開した背景には、人道的動機とともに良好な日米関係の形成のためには米国の世論を親日的にする必要があると理解したからであった。
この日露戦争の莫大な戦費で疲弊した極東の島国からの多大な義捐金に対して、多くの米国民は賞賛の声を挙げたが、しかし地震の半年後に、まさにそのサンフランシスコの教育委員会が、日本人学童隔離問題を引き起こした。日本の実業界はこの排日運動の原因を労働問題と日本人に対する文化的「誤解」にあると考えていたが、その背景には抜き差しがたい人種的偏見――「黄禍論」――が存在していたことは否定しがたい事実であった。
この「黄禍論」に対する処方箋として、渋沢は「国民外交」を通した経済的・文化的交流による相互理解によってこの「誤解」を解消しようとしたのである。その一つの成果が、日米実業団の相互訪問(1908/1909年)であり、その後も日米同志会(1913年)、日米関係委員会(1916年)、日米有志協議会(1920年)の設立・運営に関与したのである。そしてこの彼の努力は、また別の巨大地震において結実することとなる。すなわち関東大震災(1923年)である。
大震災直後から、多くの国が国際援助を被災者に与えた。最大の義捐金は米国から来たもので、全体の三分の二を占めた。米国人の多くがサンフランシスコの返礼として募金したのである。そして巨大だっただけではなく、素早かった米国の義捐金は、多くの日本の人々によって賞賛された。米国の行動は多くの日本人に好感を与えるものであり、それは国民外交の効果にほかならなかった。
この悲惨な災害に直面した人々によって口にされたことばが、「禍転じて福となせ」であり、国民外交の提唱者によっても唱えられた。金子堅太郎はこの地震を、「第二の維新」を実施する機会でもあると述べ、この機会に、日本と米国のより強固な関係を作ることを渋沢栄一にあてた書簡において主張している。金子は、この帝都復興事業を米国経済の市場として提供することを厭わなかったのである。金子の計画に賛同した渋沢は、活発に米国の企業家にむけて義捐金と対日投資を呼びかけた。米国との友好は彼らにとっての「転じた福」の一つであった。
しかしながら、彼らの努力の成果としてのこの友好的な国際精神は、再び踏みにじられた。すなわち翌1924年に米国連邦議会が、日本からのすべての移民を完全に禁止する移民制限法を通過させたのである。
米国での反日感情の嵐に対して、渋沢はもはや「策無し」と言わざるを得なくなった。しかし彼は、落胆はしたものの、多くの日本人のように激しい怒りを維持し続けることはなかった。彼は自分がなし得ることを模索し、そしてそれを実行した。それは、日本の激昂した大衆感情を落ち着けさせることであった。その後もこの理不尽な嵐に対し、渋沢はあくまで理性的に抵抗した。彼は太平洋問題調査会会長に就任し(1925年)、静岡県下田にT・ハリスの記念碑を建て、人形外交を行い(1927年)、日米交換教授の歓送迎会をしばしば主催した。彼はその最期まで、おのれの全精力を日本と米国の友好のために捧げたのである。