$FILE1_l 別冊『環』 横井小楠 1809-1869 「公共」の先駆者
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はじめに
徳富蘇峰は、三人の幕末思想家を挙げて次のように評している。
「宇内(うだい)の大勢に至りては、横井〔小楠〕は世界的眼孔を以てこれを悟り、佐久間〔象山〕は日本的限孔を以てこれを察し、藤田〔東湖〕に至りては、水戸的眼孔を以て、僅(わず)かにこれを覗(うかが)いたるのみ。」
小楠・象山・東湖の三者は、いずれも強い思想的影響力を有した人物である。小楠が世界規模の視座から時代を捉えていたのに対し、象山は世界における具体的単位としての日本国家の視座から、そして東湖に至ってはさらに細分化された藩のレベルからわずかにこれを捉えることが出来たに過ぎない――蘇峰はこのように喝破する。この評価は、三者の本質を良く衝いており、人物評に卓越した蘇峰の面目躍如と言ってよい。
蘇峰がこのように小楠を高く評価した背景には、彼の父である一敬が小楠の一番弟子であったことも無関係ではないだろう。しかし彼がこの評を書き記した著作は小楠にではなく、幕末の志士である吉田松陰に捧げられたものであった。「第二の維新」を標榜した蘇峰は、松陰に「局面打破」すなわち時代の突破力を見出したのである。
「東湖の手腕用ゆる所なく、佐久間の経綸(けいりん)施す所なく、小楠の活眼行う所なく、智勇交(こもご)も困(くるし)むの極所に際し、かえって暴虎(ぼうこ)馮河(ひょうが)、死して悔(くい)なき破壊的作用のために、天荒を破りて革新の明光を捧げ来るものあり。その人は誰ぞ、踏海(とうかい)の失敗者、野山の囚奴、松下村塾の餽鬼大将、贈正四位、松陰神社、吉田松陰なり。」
尊攘派を形成させた東湖の組織力、東西の学問を修めた象山の学識、そして世界規模の視座を持つ小楠の洞察力――これらが発揮できないような閉塞状況に際してこそ、「蹉(さ)跌(てつ)」や「失敗」を繰り返しつつも、ひたむきに時代にみずからを投げ込んだ松陰のような人物が求められるのだと若き蘇峰は「第二の吉田松陰」が現れるべきことを力強く説いたのである。
この蘇峰が著した『吉田松陰』の巻頭には、松陰から小楠に宛てられた書簡が石摺(いしずり)で掲げられている。蘇峰がその序文において触れているように、この書簡は、一八五三(嘉永六)年、ロシア・プチャーチン艦隊への密航のために長崎に向かったもののこれを果たせなかった松陰が、その帰路において小楠に送ったものである。松陰は、この長崎行において熊本に立ち寄っており、その際、小楠と親しく交流していた。
この書簡で目を引くのは「弊藩」すなわち長州藩における有為の人物の列挙である。松陰は小楠にこれら「有志の士」を紹介することで、藩を越えた全国的なネットワークを模索したのである。そこには、小楠が松陰の構想するネットワークの一つの核(コア)となるであろうという確信を看取することが出来よう。