今日のお題:桐原健真「弘道館祭神論争:会沢正志斎の神道思想」(日本思想史学会2012年度大会、松山市・愛媛大学、2012年10月28日)
*はじめに
水戸藩の藩校である弘道館は一八四一年に、当時の藩主である徳川斉昭(一八〇〇?一八六〇)によって創建された。神儒一致を標榜するこの学舎には、孔子とともにタケミカヅチすなわち鹿島神が祀られており、その奉斎意図については、「弘道館記」(一八三八)やその解説書である会沢正志斎の『退食間話』(一八四二)さらには藤田東湖の『弘道館記述義』(一八四七)に見ることができる(ただし実際に勧請されたのは一八五七年)。しかし、これらの祭神の選定作業の道程は必ずしも平坦なものではなかった。というのも斉昭は、天祖や天皇神(以下「天皇神」とのみ記す)の奉斎を強く希望しており、その主張は「弘道館記」の撰述直前まで続いたのである。この事について「弘道館記」の草稿を脱稿した直後の東湖は、みずからの師である会沢に次のような愚痴めいた書簡を書き送っている。
伊勢の分霊である村松神社(現茨城県東海村鎮座)や桓武天皇と崇道天皇(早良親王)を祀る柏原明神(同ひたちなか市)といった領内鎮座の天皇神を勧請することを斉昭は希望した。そこには皇祖皇宗を祀る自身の権威化によって、徳川将軍を相対化する意図があったことは否めない。しかし、こうした藩主の意見は通らなかったのである。
「弘道館記」の撰述にあたり、会沢や青山延于のほかに佐藤一斎にも意見を徴した際、鹿島神奉斎について斉昭は次のように裁定している。
斉昭は、あたかも鹿島神奉斎が自身の初志であったかのように記しているが、彼が天皇神の奉斎を諦めたのは東湖らの説得の賜物でもあったろう(なお一斎も、天照大神の奉斎に異を唱えていた〈中村安宏「佐藤一斎と後期水戸学:『弘道館記』の成立過程」、『日本思想史学』27号、1995年参照〉)。しかし、会沢・東湖そして延于といった後期水戸学の主立った人々は、天皇神奉斎への反対については一致していたが、これに代わって奉斎すべき神の具体的内容については一致していなかった。こうした中で、終始一貫して鹿島神と孔子を奉斎すべきであると主張していたのが会沢正志斎であった。本発表ではこの祭神論争における会沢の鹿島神奉斎論を通して、東藩水府の学として構成された会沢独自の神道思想について概観することを目的とする。それは、しばしば無前提に明治維新や近代天皇制国家のイデオロギー的源泉とされてしまう後期水戸学を、常陸国という地域的固有性を背景に成立したイデオロギーとして再構成する試みであり、後期水戸学を近世後期という思想空間の中に読み解くことに資するものとなろう。
水戸藩の藩校である弘道館は一八四一年に、当時の藩主である徳川斉昭(一八〇〇?一八六〇)によって創建された。神儒一致を標榜するこの学舎には、孔子とともにタケミカヅチすなわち鹿島神が祀られており、その奉斎意図については、「弘道館記」(一八三八)やその解説書である会沢正志斎の『退食間話』(一八四二)さらには藤田東湖の『弘道館記述義』(一八四七)に見ることができる(ただし実際に勧請されたのは一八五七年)。しかし、これらの祭神の選定作業の道程は必ずしも平坦なものではなかった。というのも斉昭は、天祖や天皇神(以下「天皇神」とのみ記す)の奉斎を強く希望しており、その主張は「弘道館記」の撰述直前まで続いたのである。この事について「弘道館記」の草稿を脱稿した直後の東湖は、みずからの師である会沢に次のような愚痴めいた書簡を書き送っている。
最初御議論申上候節、九五〔斉昭〕の御主意は兎角天祖神武を御祀りの御主意に而、村松又は湊の柏原明神等に御気之れ有り候ゆへ、非礼之段申上、兼々貴説に而承知仕居候通り段々順々に天祖神武帝にも通じ候意味申上、是はとうとう十分に御呑込に罷成候。(藤田東湖「会沢伯民に与へし書」1837(天保8年)9月28日、水戸市教育会編纂『東湖先生之半面』(1909年)国書刊行会復刻、1998年、99頁、原片仮名。)
伊勢の分霊である村松神社(現茨城県東海村鎮座)や桓武天皇と崇道天皇(早良親王)を祀る柏原明神(同ひたちなか市)といった領内鎮座の天皇神を勧請することを斉昭は希望した。そこには皇祖皇宗を祀る自身の権威化によって、徳川将軍を相対化する意図があったことは否めない。しかし、こうした藩主の意見は通らなかったのである。
「弘道館記」の撰述にあたり、会沢や青山延于のほかに佐藤一斎にも意見を徴した際、鹿島神奉斎について斉昭は次のように裁定している。
学校に神を祭るの意、実は天下人民をして天祖の鴻恩を仰がしむるの意なり。されども大名の国にて往々私に天祖を祀るやうになりては、却てよろしからざるゆへ、開国の功臣にて常陸に霊を留めたる神〔鹿島神〕を祀らんと思ふなり。(徳川斉昭「青山延于宛」1834(天保5)年12月18日、『水戸藩史料・4』吉川弘文館、1915年、283頁。)
斉昭は、あたかも鹿島神奉斎が自身の初志であったかのように記しているが、彼が天皇神の奉斎を諦めたのは東湖らの説得の賜物でもあったろう(なお一斎も、天照大神の奉斎に異を唱えていた〈中村安宏「佐藤一斎と後期水戸学:『弘道館記』の成立過程」、『日本思想史学』27号、1995年参照〉)。しかし、会沢・東湖そして延于といった後期水戸学の主立った人々は、天皇神奉斎への反対については一致していたが、これに代わって奉斎すべき神の具体的内容については一致していなかった。こうした中で、終始一貫して鹿島神と孔子を奉斎すべきであると主張していたのが会沢正志斎であった。本発表ではこの祭神論争における会沢の鹿島神奉斎論を通して、東藩水府の学として構成された会沢独自の神道思想について概観することを目的とする。それは、しばしば無前提に明治維新や近代天皇制国家のイデオロギー的源泉とされてしまう後期水戸学を、常陸国という地域的固有性を背景に成立したイデオロギーとして再構成する試みであり、後期水戸学を近世後期という思想空間の中に読み解くことに資するものとなろう。