2003年01月01日 (水)

今日のお題:検地帳データベース・フォーマット

本ファイルは、検地帳データ入力のための函数およびマクロです。あくまで、フォーマットですので、適宜ご利用に併せて、お使いください。多分、大体のMS-Excelで動くのではないのかなぁと思いますが、XPで作ったのでわかりません。多分2000ならいけます。

これは某所の検地帳のデータベース入力のために尺貫法の函数を書くことを依頼されてから始まりました。そのとき、考えなしに、「じゃぁ、マクロで、フォーム作りますよ」と言ってしまったので、漸々二ヶ月くらいかかって作ったわけであります。といっても、実際は一晩で出来たので、素晴らしくいい加減であります。

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自慢ですが、検地帳というのは当方の専門ではないので、こんな作り方でよいのかどうかはまことに以て不明ですが、何卒各方面のご鞭撻を賜りたく存じます。

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2003年01月01日 (水)

今日のお題:西暦→干支変換辞書『干支』 for ATOK

【能書】
 西暦から和暦干支への変換用のATOK辞書登録ファイルです。まぁ、なんですか今時誰れが干支を使って紀年するんだという話もありますが、そこはそれ世の中「供給が需要を生む」ということを言ったエライ経済学者もいますから取り敢えずupいたします。別に、わたしは近経を信奉してませんが…。なお、ATOK10以降で使用可能です。ヘッダを変えればそれ以前でも使えるかも知れません。

【凡例】
・593年(推古癸丑)?2010年(平成庚寅)までサポートしております。元号が変わった場合は、その都度変更を加えて下さい。あるいは元号が廃止された場合は、その部分を削除していただくか、記念に保存して下さい。
・元号が制定されていない年は天皇の名前を以てこれに代えました。
・南北朝時代は双方採用しました。
・弘文天皇を認めます。この件に関してのクレームはご遠慮下さい。
・私年号はカバーしておりません。御了承下さい。
・皇紀もカバーしません。
・細かいことは同梱のreadme.txtをご覧下さい。


【後書】
 この辞書は、フリーウェアです(あたりまへだ)。日本思想史や日本倫理思想史や日本史や日本学や或いは何となくダウンロードしてしまった方からのメールをお待ちしています。また、もしミスや要望がありましたら遠慮なくどうぞ。


【ああだこうだ】
 干支は十干十二支を組合せ、10*12/2=60通りの表記による紀年法です。一体いつから始まったかについては、諸説ありますが、殷の時代の甲骨文にもその記載がありますから紀元前一千年くらいにはあったのではないかと考えられます。これはこれでとんでもない話ではあります。驚きよりも、あきれかえってしまいます。中国文明恐るべし。とか、いっているくせにこの辞書は日本の元号用だったりします。むこうの元号はよく分かりません。どれが正統か認定するのが大変面倒です。特に三国時代は歴史学では魏が正統なわけですが、魏の元号を採用したら怒る人がたくさんいるんじゃないかなぁと思いますし。

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2003年01月01日 (水)

今日のお題:検定教科書体西暦→西暦(元号)変換辞書 for ATOK

【能 書】
 ATOK辞書登録用のファイルです。西暦から和暦への変換辞書ですが、検定教科書体で表記しております。ATOK10以降で使用可能です。ヘッダを変えればそれ以前でも使えるかも知れません。


【検定教科書体とはなにか?】
 検定教科書体とは小中学校社会科・高等学校日本史において採用されている年号表記法です。具体的には、「1111(天永2)年」のように「西暦(元号)年」の形で表記されます。


【凡例】
・593(推古1)年?2010(平成22)年までサポートしております。元号が変わった場合は、その都度変更を加えて下さい。あるいは元号が廃止された場合は、その部分を削除していただくか、記念に保存して下さい。
・元号が制定されていない年は天皇の名前を以てこれに代えました。
・南北朝時代は双方採用しました。
・弘文天皇を認めます。この件に関してのクレームはご遠慮下さい。
・私年号はカバーしておりません。御了承下さい。
・皇紀もカバーしません。
・細かいことは同梱のreadme.txtをご覧下さい。

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2003年01月01日 (水)

今日のお題:吉田松陰における「忠誠」の転回――幕末維新期における「家国」秩序の超克(『日本思想史研究』23号・2001年3月)

 本稿は幕末維新期の「志士」たちの「忠誠」(*)の問題について、吉田松陰という注目すべき思想家を取り上げて論じたものである。

(*)そもそも「忠誠」が現在のようにloyaltyの意味で用いられるようになったのはそう古いことではない。近代以前には「忠誠」ということばはあまり用いられず、また用いられた場合でもloyaltyではなくむしろhonestyの意味で用いられることが普通であった。(なお、井上哲次郎『哲学字彙』(1881年)でも、honestyの訳語として「忠誠」が用いられている。)したがって、ここで「忠誠」の語を近代的な意味で用いるのは、これを主観的な意識としての「忠」と弁別し、客観的な分析概念として用いているのである。

 藩主から天皇への「忠誠」の移行、あるいは封建的分邦としての藩国家から近代的統一態としての日本国家への「忠誠」の移行の軌跡が、単純に近代的思考によって導かれるのかという疑問から本稿は出発した。当時の志士たちは、その多くが封建制内部にその出自を有しており、その意味で天皇や日本国家への移行といった封建制の自己否定の過程は、単なる主君の交代や所属対象の空間的拡大によってなされるものではないからである。

 松陰自身も、その晩年に「亡邸・入海以来、近日勤王の諸策に至るまで、過激なりと雖も、過憤なりと雖も、吾れの心赤、一毫も吾が公〔藩主〕に負かず。」(「知己難言」1859(安政6)年5月2日)と語っていたように、主観的には藩主への「忠」を最後まで堅持し続けていたのであり、天皇という新しい「忠誠」対象へ全的に移行しすることで既存秩序を超克したのではない。むしろ松陰は、重臣や有司によって構成される既存の「家国」秩序を、藩主の絶対化を強烈に主張することで超克し、新しい秩序を構築しようとしたのである。その意味で松陰の「忠」は、「藩主親政・君臣一体」という封建倫理の正統的立場から形成されていたのである。


 本稿では松陰の「忠誠」の転回を、初期(亡命まで)・中期(投獄まで)・後期(刑死まで)の各時期に分け、さらに松陰刑死後にその「忠誠」が彼れの弟子たちによってどのように受容・変容されていったかを論じた。

 初期松陰は、自らを長州藩(「御家」)の山鹿流兵学師範(「家」)である吉田寅次郎として自らをアイデンティファイしており、その「忠誠」はこの主君の「御家」と家臣の「家」によって歴史的連続性の内に形作られる観念的な「家国」において展開されていた。しかし1851(嘉永4)年末に敢行した亡命(脱藩)の結果、御家人召放(浪人にされること)という処分を下された松陰は、自らが「忠誠」の対象と規定していた「家国」秩序から逸脱することとなり、新たな「忠誠」対象を模索することとなる。

 この模索の時期が中期である。浪人の身として諸国遊学中にペリー艦隊の来航という事件に遭遇した松陰は、もはや藩士ではないにも関わらず、「将及私言」(1853(嘉永6)年)を始めとして数本の上書を提出した。本稿ではこれらの上書のうち「将及私言」を取り上げて、松陰が「主君」に対する「忠」を尽すことで、自らをアイデンティファイさせようとした傾向を指摘し、この時期の松陰の「忠誠」対象がかつての「家国」から「主君」へとシフトしつつあったことを明らかにした。

 松陰のこの「忠誠」の在り方は、実際には重臣や有司の合議によって運営され、藩主は時に押し込められる可能性もあった近世藩国家の「国制」(笠谷和比古氏)を考えた場合、極めて特殊でありながら、かつ封建制倫理の根本的な部分に基づいていると言える。この「忠誠」の在り方がいっそう深められたのが後期である。

 1854(安政元)年におけるペリー艦隊密航失敗により逮捕・投獄された幽囚生活の時代が後期にあたり、この時期に松陰における藩主の絶対化の傾向はもっとも強くなった。

 獄中にあっても松陰は天下国家を語ることをやめようとはしなかった。幽囚の松陰が天下国家を語る背景には、「已に義を忠孝に失へども、尚ほ食を家国に仰ぐ。是れ君父の余恩に非ずや。」(「三余説」1855(安政2)年)というような、過剰な報恩の意識があり、この「恩」こそすでに「家国」秩序から排除された「世の棄物」としての松陰が、新しい「忠誠」対象を求めた結果再発見されたものにほかならない。そしてこれ以降、「君恩」(世禄ではなくこの防長二国に生れたことそれ自体を指している)に報いる存在として、松陰は自らをアイデンティファイさせるに至ったのである。

 このような「君恩」に対する絶対的な「忠」の意識に基づく自己の定位という「忠誠」のありかたは、松陰刑死後の長州藩尊攘派にも共有されたものであった。長州藩内の「藩主の上意の下における、「有司」グループの排他的結束の形成」(井上勝生氏)は、まさしく松陰の主張する藩主の絶対化に基づいており、この「『有司』グループ」は長州藩内の尊攘派を基盤として、既存の秩序としての「家国」の保全を藩主の命に優越させるような「俗論派」に対抗することで形成されていったものであった。

 藩主への絶対的な「忠」によって自己を自己たらしめようとする松陰の「忠誠」の在り方は、本来「家国」秩序の内に位置づけられていた藩主をそこから切り離す点で、客観的に見れば、確かに異常な「忠」の暴走であり、その秩序の内にあるものにとっては、「不義不忠」と見做されてしかるべきものであった。しかし、自己否定ともいうべき近世封建制それ自体の否定は、単純に「一君万民」の天皇の存在によってのみ担保されるものではなく、思想的にはむしろ封建制倫理の文脈の内において、「家国」から藩主と藩政府とを分離し、前者への絶対的な「忠」を媒介として後者を否定するという過程を経ることで初めてなされ得たのであり、松陰の描いた「忠誠」の転回の軌跡はまさにそのことを示していると結論するものである。

2003年01月01日 (水)

今日のお題:吉田松陰における対外観 ――「万国公法」以前の国際秩序認識(日本文芸研究会『文芸研究』152号2001年)

本稿は、自然法(「性法」natural law)の思想に基づく「万国公法」受容以前の幕末日本における対外観の転回を、安政期の吉田松陰を中心として考察することを目的としたものである。

松陰の強烈な尊攘主義の言動は、しばしば自民族中心主義の典型と指摘されてきた。しかし松陰は、日本が世界の一部であることを自覚し、諸国家が各々自足しつつ、かつ同時に相互に関連し合う存在であることを認識していた。そしてそれは西洋列強に対していかに対等な国家間関係を確保するか、という現実的な問いとして現れた。松陰がこの問いにどのように答えようとしたかを、本稿は、松陰の著書『外蕃通略』を初めとした松陰の外交文書に関する著述を通して検討し、そこに「敵国」・「敵体」という儒学的概念の「読み替え」があったことを指摘した。

「敵国」とはhostile countryの謂ではなく、匹敵を意味する「敵体」の礼をもって交わる国のことである。独立国としての「帝国」とこれに従属する「王国」との二種類に国家を弁別した松陰は、独立国である帝国日本が、同様に独立国である西洋列強に対して「敵体」であるべきことを主張した。

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(1)帝国…日本と対等な国家・「敵国」
(2)王国…帝国の従属国および植民地
(3)争地・交地…無主の地・辺境

そして人臣たる征夷大将軍によって国内外の政治が執行されている現状を批判して、天皇を真に内外通じて「元首」とする国家体制論を展開したのである。佐久間象山や横井小楠も同様に国家間の対等を説いたが、幕府を「朝廷」や「廟堂」と呼び、あくまで外交主体として考えていたように、国家体制それ自体の変革を企図してはいなかった点で松陰と異なっていた。

松陰は西洋列強の東漸という世界史的状況に臨んで、自ら有する既存の思想体系の中にあった「敵体」という儒学的概念を〈諸〉帝国間の「敵体」という観念で読み替えることで、これを理解したのであり、それは「国際社会」への強制編入に対する一つの抵抗思想を生み、また同時に天皇を元首とした日本の新しい国家像を形成する出発点となったのである。

2003年01月01日 (水)

今日のお題:吉田松陰における「転回」――水戸学から国学へ(東北史学会『歴史』98号2002年)

On "Revolution" of YOSHIDA Shoin (吉田松陰).
From the Mito School (水戸学) to the Native Studies(国学)
KIRIHARA Kenshin

The battle cry that ushered in the modern era in Japan was "Revere the Emperor and expel the barbarians" (尊王攘夷) . YOSHIDA Shoin (1830-1859) was an activist and royalist in the last days of the Tokugawa regime. That he was strongly influenced to the Mito School (水戸学) is already a known fact. He met AIZAWA Seishisai (会沢正志斎) in Mito and was taught the idea of Japan as a unified nation (Kokoku; 皇国). Many have argued about when he was under the Mito School influence until. This paper points out that Shoin's thought shifted greatly from the Mito School to the Native Studies School (国学) after his thought underwent a 'Copernican revolution' (August 1856; thus named by MINAMOTO Ryoen "A History of Thought in Tokugawa-period" 源了圓『徳川思想小史』). This argument supported by the following two aspects.


1) An analyses of "Record of Readings in Noyama-Prison" (『野山獄読書記』) indicates his tendency to read works of the Mito School shifts to works of the Native Studies. (Chapter 2)
2) After the "Revolution",Shoin's letters addressed to his friend AKAGAWA Awami (赤川淡水; He had stayed in Mito to study under AIZAWA.) denounced Awami as not a true loyalist. (Chapter 3)

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Also, Chapter 4 elucidates Shoin's distinction of? the Native Studies from the Mito School. The Mito School based Japan's "raison d'etre" on Confucianism (especially "The righteousness of the morals, loyalty and filial piety" (「君臣父子の大倫の正しき」こと) ), while the Native Studies based it on the Emperor's existence itself and an Imperial edict of Amaterasu Omikami (天照大神の神勅). Following the "Revolution", Shoin adopted this view and acted on it.

近代日本の到来を告げたスローガンは尊王攘夷であった。吉田松陰(1830-1859)は、幕末期の活動家・尊王家であった。かれが水戸学に強く影響を受けたことはすでに知られた事実である。彼は水戸で会沢正志斎に会い、統一国家(皇国)としての日本の観念を教えられた。多くのひとが、彼がいつまで水戸学の影響下にあったについて論じている。本論文は、彼の思想が「コペルニクス的転回」(1856年8月――源了圓『徳川思想小史』)を経たのち、水戸学から国学へ大きくシフトしたことを指摘した。これは次の二つの面から論証された。(第二節と第三節でこれらを述べた。)

1) 『野山獄読書記』の分析が、彼の読書傾向が水戸学の著作から国学の著作へ移行したことを明らかにした。
2) 「転回」後、彼の友人である赤川淡水(彼は、会沢の下で学ぶために水戸に留学していた。)に宛てた松陰の手紙は、淡水を真の尊王家ではないとして糾弾していた。


尊王論関係読書傾向の推移
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そして、第四節では、松陰の理解において国学が水戸学とどこが相違しているかを明らかにした。水戸学は日本の存在理由を儒学(とりわけ「君臣父子の大倫の正しき」こと)に基づいていた。これに対して、国学は天皇の存在それ自体に基づいていた。「転回」後の松陰は、この主張を受け入れて活動していったのである。

2003年01月01日 (水)

今日のお題:幕末維新期における自他認識の転回――吉田松陰を中心に(日本思想史研究会『年報日本思想史』創刊号2002年)

幕末維新期における自他認識の転回――吉田松陰を中心に(日本思想史研究会『年報日本思想史』創刊号2002年3月)

 本稿は、安政期以前の吉田松陰の思想形成の諸段階を詳細に検討することで、〈長州藩〉の〈山鹿流兵学師範〉として自己規定されていた彼が、東漸する西洋列強の脅威を知ることにより、自己(日本同時にそれは松陰自身である)および他者(西洋諸国)に対する認識が大きく転回していった過程を明らかにしたものである(安政期以後については拙稿「吉田松陰の対外観」に譲る)。

 ここで注意すべきことは、この「西洋列強の脅威」なるものが、直接的に「国際社会」の認識やこれに対する統一体としての「日本」の自覚を松陰にもたらすものではなかったという事実である。このことは、しばしば抽象的な「外圧」なるものが、日本の近代化をもたらしたというような図式的な幕末維新史像に修正を求めるものである。

 この自他に対する認識の転回は、その認識をもたらす諸観念(思想)との文字通り衝撃的な邂逅によりなされたものであった。それ故、この自己と他者に対する認識の転回は、必ずしも同時並行的に生じるものではなく、幾許かのタイムラグを伴う。松陰の場合は他者(西洋)認識の転回が自己(日本)認識の転回に先立っていたために、彼はこの新しく認識された他者に対し、「兵学者としての自分が守るべきもの(=自己同一の対象)」を「方寸錯乱」しながら模索していたのであり、「日本」の自覚――特に「皇国」という全体性の観念――に到達するには、少からぬ時間を要したのである。

 本稿では松陰の思想形成の諸段階に沿い、以下のようにその自他認識の転回を考察した。

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1 長州藩兵学師範期 この時期の松陰は、アヘン戦争以後の「異賊共取囲」む「我が神州」という国際的状況を知識としては知りながらも、日本全体を防衛する意識を有することはなかった。松陰の意識はあくまで防長二国という部分を出ることはなく、「我が国砲術の精確なる事遠く西洋夷に勝り候」(上書「水陸戦略」1849(嘉永2)年)と言うように自らの兵学に絶大な信頼を寄せていた。だがこの信頼は崩壊の時を迎える。彼は「西夷銃砲」の威力を知るのである。

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2 西遊期(平戸・長崎留学) この西遊において松陰は、実物の蘭船に乗船しその大きさを知った。それは商船であるにもかかわらず、6門もの砲を構える巨大堅牢な船であり、かつて「鉅大なる程吾が的になり易く大いに好む所」(「水陸戦略」)と述べた松陰の期待を少なからず裏切るものであった。またこの地で松陰は多くの海外事情書をむさぼるように読んだが、その中でもっとも彼に影響を与えたのがアヘン戦争の実態――清国の徹底的な敗北――を赤裸々に描いた魏源『聖武記附録』であった。

 松陰は『聖武記附録』中の「徒に中華を侈張するを知り、未だ寰瀛の大なるを観ず」を「佳語」とし、「夫れ外夷を制馭する者は、必ず先ず夷情を洞ふ」べきだとする意見に賛同している。そこには、もはや「外夷」を単なる異物としてではなく、一箇の脅威として――自らに対峙する他者として――見做す態度が生まれていたのである。

 この蘭船体験と『聖武記附録』とは、松陰が信頼していた伝統的な和流砲術の敗北を宣告するものにほかならなかった。魏源は伝統兵学に固執することの無意味さを松陰に突き付けたのであり、この衝撃は松陰を「巨艦巨熕」製造を指向させるに至った。平戸において松陰は大艦巨砲主義へ転向したと言ってもよい。

 平戸において松陰は、明確な脅威としての「西洋」という他者を認識し始めたものの、脅かされる自己(=守るべき自己)について認識するには――ネイションとしての「日本」を自覚するには――まだ時間が必要であった。

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3 江戸遊学期 江戸遊学中の松陰は「学問迚も何一つ出来候事之れなく…方寸錯乱如何ぞや」(「兄杉梅太郎宛」1851(嘉永4)年8月17日)と叫びながら、「武を学ぶの意」(=守るべき自己)を模索し続けていた。しかし当時の松陰は、歴史と言えばなお「漢土」の「二十一史」であり、「御藩の人は日本の事に暗し」と指摘され、「私輩国命を辱むる段汗背に堪へず」と反省しながらも、「未だ及ぶに暇あらず」と必ずしも日本を語るための言説を積極的に摂取することはなかったのである。松陰がこの言説を積極的に接種するに至るには、脱藩後の東北行における水戸学との邂逅を俟たねばならなかった。

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4 水戸遊学期 水戸で会沢正志斎と交わった松陰は「身皇国に生まれて、皇国の皇国たる所以を知らざれば、何を以てか天地に立たん」(「来原良三に復する書」1852(嘉永5)年7月以降)という強い自負を得た。この「皇国の皇国たる所以」という観念こそ松陰に「ネイションとしての自己意識」(=「日本」の自覚)を与えたものである。そして「日本歴史」を耽読した松陰は、兵学者としての自らの存在意義を「長州藩」を越えた「皇国」を守る点に求めるに至ったのである。ここに封建的分邦に生まれ育った長州藩兵学師範吉田大次郎個人の自己意識の拡大(藩国家から日本国家へ)を見出すことが出来よう。

 しかしこの「皇国」を語る場合でも、この時期の松陰にとって「尊王」がまだ重要な実践課題ではなかったことは注目すべき点である。すなわち「皇国の皇国たる所以」としての「聖天子蛮夷を懾服するの雄略」は「皇国」を「皇国」たらしめる方法であっても「皇国」を「皇国」たらしめる理由ではなかった。万世一系の天皇は「皇国」の光輝を弥増す存在であっても、天皇がその淵源であると松陰は見ていなかったのである。松陰にとって天皇は天皇であるが故に尊いのではなく、桓武天皇のように「蛮夷を懾服するの雄略」をなすが故に尊いのであった。このような天皇観は、のちに「コペルニクス的転回」(源了圓『徳川思想小史』)を遂げる。われわれのよく知る松陰の激烈な尊攘家としての性格は、これ以降顕著に現れてくる。ただしこの「転回」についての考察は拙稿「吉田松陰の『転回』」に譲る。

5 ペリー艦隊来航以後 ペリー艦隊の来航という現実の脅威に臨み、松陰は藩主に「将及私言」を上書している。そこでは西洋兵学の全面的な導入と挙国一致による国防体制の確立が高らかに謳われており、封建的分邦の意識はもはや姿を消していた。

 第二次ペリー艦隊に松陰は密航を試みたが、周知の通りそれは失敗に終る。松陰をこの挙に駆り立てた背景には「彼れを知るを以て要と為す」という兵学者としての態度、さらには「外夷を制馭する者は、必ず先ず夷情を洞ふ」というあの魏源の主張があった。ペリー・プチャーチンを「海外三傑」のうちの二人などと江戸の人士が騒ぐのも、自らの無知を知らないことに由来するのだと喝破する松陰の眼差しは、現前する艦隊やその指揮官にではなく、むしろその背後にあるアメリカやロシアといった諸国家に対して向けられている。松陰にとってこれら諸国家は、もはや排除されるべき異物ではなく、自らに対峙する他者として、対等に認識される存在となっていた。この諸国家との対等の観念こそ、松陰を当時の攘夷論の大勢から大きく異ならしめているものであった。

まとめ 松陰は、まず平戸において他者(=西洋)の存在を認識し、そして水戸において「ネイションとしての自己意識」をもたらす観念に触れた。この自己と他者とに対する認識が二つながら相俟って諸国家間の対等という観念へと松陰を導いたのであり、そこには「彼を知り己を知る」兵学的思考が、西洋に対する知識と日本に対する意識とを架橋するものとして強く作用していたと結論するものである。

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