2003年10月19日 (日)

今日のお題:「松陰と白旗――『国際社会』認識の転回」(2003年度日本思想史学会パネルセッション「吉田松陰研究の現在――開国前後の対外観を中心に」、2003年10月19日)

日本にとって幕末維新期は、「国際社会」という名の西洋国家間システムを受容すると同時に、みずからを一箇の統一態として自覚する過程でもあった。本報告は、戦闘停止の意志表明である「白旗」に代表される「外夷の法」を、兵学者たる松陰がいかに認識し、受容していったかを明らかにすることで、松陰における「国際社会」理解を論ずるものである。

ペリー艦隊が来航した際に、白旗に添えられたとされる降伏勧告とも言うべき内容の「白旗書簡」の真偽について、近年論議が起きており、この白旗書簡をふまえ、アメリカの砲艦外交を厳しく指弾した人物に佐久間象山がいることはしばしば指摘されている(「ハリスとの折衝案に関する幕府宛上書稿」一八五八(安政五)年、日本思想大系『渡辺崋山・高野長英・佐久間象山・横井小楠・橋本左内』岩波書店一九七一年)。その一方で象山を終生「吾が師」と呼び師事し続けた吉田松陰(一八三〇〈天保元〉?一八五九〈安政六〉)が、この「白旗書簡」について、「此書翰寅遂不レ能レ信」(『対灯私記』松陰頭註、一八五四〈安政元〉)と指摘していた事実はこれまでほとんど注目されてこなかった。

松本健一氏は、「〔ペリー来航の〕一八五三年の時点で、日本人はまだ、白旗が降伏のメッセージであるという国際法的な取り決めを知らなかった」(『白旗伝説』講談社一九九八年)と指摘したが、一八一九(文政二)年に、オランダ船が水を求め白旗を掲げた記述があるように(「ヤン・コック・ブロムホフの日記」一八一九年一一月一三日条、日蘭学会編『長崎オランダ商館日記』八巻、雄松堂出版一九九七年)、白旗の存在とその機能について、日本人のすべてが無知であったとは言えない。兵学師範時代の松陰も、一八四〇?四二年分の『和蘭別段風説書』を読み、「戦敗れて降を乞ふ時は、白旗を船上に引き揚ぐ」(「問条」一八五〇〈嘉永三〉)というその機能を認知していた。しかし松陰は、白旗という「外夷の法」を「我れに在りて必ずしも知らず」と断じ、これを「一々遵守する」ことは「人に致さるる」ことであると考え、その承認を拒否していた。

このような独善的・自民族中心的な態度は、みずからの講ずる伝統兵学へのいわば根拠のない信頼に基づいていたが、一八五〇(嘉永三)年秋の平戸・長崎遊学において乗船したオランダ商船の巨大さを実感し、また清国人魏源の『聖武記』をはじめとした海外知識を摂取した結果、それは次第に変容していった。そして、「今誠に旧に率はんと欲せば則ち時に随はざる能はず」(「漫筆一則」一八五〇〈嘉永三〉)と書き残したように、松陰の意識は、たんに防長二国を守る兵学から、日本全体を西洋に対し独立たらしめる経世論へと大きく転回していき、ついに西洋諸国と日本とを対等の存在として承認するに至ったのである。

このような自他認識の転回こそが、ペリー・プチャーチンを「近世海外」の「三傑」(『幽囚録』一八五四〈安政元〉)の二人と評した江戸の人士に強い批判を加え、これら艦隊の背後にある国家こそが問題であるという冷静な認識を松陰にもたらしたのであった。松陰が白旗書簡を「遂に信ずる」ことができなかった背景には、「国際社会」を国家間の対等という秩序のうちにとらえようとする、このような認識があったのだと言えよう。

ペリー艦隊密航による投獄後の松陰は、羅森(ペリー艦隊漢文通訳)が著わした太平天国の乱の記録(通称『満清紀事』)を翻訳した『清国咸豊乱記』(一八五五〈安政二〉)において、白旗の意味をその原文よりもくわしく叙述している。またそれを「和平の信」と表現していたことは、白旗自体を屈辱的な降伏の象徴と見做していなかったことを示している。この『清国咸豊乱記』は、たんなる漢文の書下しではなく、和文で著された日本人に向けた書物であり、ここで松陰があえて白旗の叙述を増補した背景には、将来西洋列強との交戦の際、平和状態の恢復の意志表明であるこの白旗の存在を日本人に対して明示しておく必要があると判断したからではなかったろうか。

兵学師範時代、白旗を「外夷の法」として拒否していた松陰は、この「外夷の法」をそれゆえに拒否するのではなく、むしろそれを「国際社会」において必要な限りで承認するに至ったのである。このような松陰の思想的転回は、「国力強勢にて外夷を駕馭するに余りあらば、居交易も亦可なり、況や出交易をや」(「墨使申立の趣論駁条件」一八五八〈安政五〉)というように、貿易すらも許容する態度へとつながっていったのであった。

みずからの主体性が確保されていれば、たとえ開港・交易を行っても、清国のような無秩序は生じないという松陰のこのような認識は、白旗に代表される「外夷の法」をも主体的に受け入れようとする態度の一つの現れであったと言えよう。

レジュメ(誤字等があります)
$FILE1

2003年10月01日 (水)

今日のお題:吉田松陰『野山獄読書記』の基礎的考察(東北大学文学会『文化』67号2003年)

 幕末志士の中でもとくにその激烈な言動によって知られる吉田松陰(1830(天保元)?59(安政6))は、一方でペリー艦隊密航(1854(安政元)年)の罪による投獄後の後半生を幽囚の内に過ごした人物でもある。
 一年有余の獄中における松陰は、多くの革命家が行ったような革命理論の構築や政治宣言の起草などといったこととは無縁であった。むしろ彼は、自らが罪人であることを自覚し、その罪人である自分が生きていられることは、「君父の余恩」「日月の余光」「人生の余命」という「三余」の賜物と考え、その感謝の念を「三余読書」ということばに託し、日々を読書に費やしたのである。

 この獄中(およびその後の幽囚)での足掛け四年にわたる読書記録を詳細に収めたものが、『野山獄読書記』(以下『読書記』)である。『読書記』は、『吉田松陰全集』に収められ、また精巧な写真版(貴重図書影本刊行会刊1931年)も、全集編纂に先立って刊行されており、改めて「発掘」されるべき文献ではない。しかし今回あえて『読書記』を取り上げたのは、この松陰の思想変遷の軌跡を如実に表現しているこの書を、先行研究がほとんど注目してこなかったからである。

 むろん、『読書記』がまったく無視されてきた無名の書であったわけではないことは、写真版の刊行という事実からも容易に理解できる。戦前における松陰研究の「古典」とも言うべき広瀬豊『吉田松陰の研究』(1943年)も、「松陰の修養の糧を知り、又出獄後は門人に教へた書名をも知ることができる」と高い評価を与えていた。しかし、『読書記』自体を対象とした考察は皆無に近く、『吉田松陰の研究』が松陰の読了書籍をかなり詳細に列挙している中に『読書記』の記載を用いている他は、敗戦後に発表された初めての体系的松陰論である奈良本辰也氏の『吉田松陰』(1951年)を挙げるに留まる。

 このような先行研究の状況を鑑み、筆者は『読書記』における松陰の読了書籍を分類・データベース化し、人文科学におけるテキストデータベースの利用の課題と問題点を検討し、また拙稿「吉田松陰における『転回』――水戸学から国学へ」で、その成果の一部を用いた。

 同拙稿は、松陰における1856(安政3)年8月の「転回」が、海防論から水戸学的尊王論への「転回」であったという通説に対し、『読書記』に現れた松陰の読書傾向が、これを界として、水戸学から国学へと劇的に変化したことをとらえ、それがむしろ国学的尊王論への「転回」であったことを、松陰の同時期の著作における主張の変化と併せて明らかにしたものである。

 しかし同稿は、その問題設定上、「尊王」という枠組みにおける計量的分析に留まるものであった。本稿は『読書記』全体を通して、安政期の松陰における思想構造を「読書」という新たな側面から再検討するための基礎作業にあたるものである。したがって本稿では具体的分析にまで至らないことを付言しておきたい。


『野山獄読書記』における読了冊数の推移
    年 冊数
   1854 106
   1855 493
   1856 505
   1857 356
   総計 1460

1/1