2004年10月30日 (土)

今日のお題:吉田松陰とアジア――「雄略」論の転回(日本思想史学会大会、2004年10月30日)

本発表は、日本という「自己」を包摂すると同時に、また一箇の「他者」でもあった、いわば矛盾した存在としてのアジアに対する松陰の認識の転回を論じるものである。 松陰におけるアジア認識おいて必ず主題となることが「侵略主義」であろう。松陰が「雄略」と呼ぶ海外への領土拡張の主張が、日本帝国主義によるアジア侵略が国策であった敗戦前に、高い評価を受けていた事実は改めて繰り返すまでもない。

「四夷を懾服」する「雄略」を「皇国の皇国たる所以」と見做していた松陰は、アジアに対する軍事的侵略(「懾服雄略」)を積極的に肯定していた。その意味で、松陰を侵略主義者であると指摘することは正しい。だが、このような軍事的膨張論は、一八五八(安政五)年以降、より平和的な交易を中心とした「航海雄略」へと転回していく。そもそも松陰の「懾服雄略」という「皇国の皇国たる所以」とは「日本が日本として独立するである方法」であった(方法と理由という意味が「所以」にはある)。それゆえ、松陰はみずからの軍事的プレゼンスを積極的に確立する必要があったのだが、一八五六(安政三)年八月の「転回」により、天皇の存在そのものを「皇国の皇国たる所以」すなわち「日本が日本として独立している理由」と考えるに至って、そのような積極的軍事力を行使する傾向は消えていったのであった。

2004年10月09日 (土)

今日のお題:幕末における普遍と固有――吉田松陰を中心に(日本倫理学会大会、2004年10月9日)

幕末における普遍と固有――吉田松陰を中心に(日本倫理学会大会、2004年10月9日)

幕末の志士である吉田松陰(一八三〇〈天保元〉?一八五九〈安政六〉)は、その最晩年――と言っても数えで三〇歳であったが――に次のように書き残している。

「天照の神勅に「日嗣の隆えまさんこと、天壌と窮りなかるべし」と之れあり候所、神勅相違なければ日本は未だ亡びず、日本未だ亡びざれば正気重ねて発生の時は必ずあるなり。只今の時勢に頓着するは神勅を疑ふの罪軽からざるなり。」(「堀江克之助宛」一八五九(安政六)年一〇月一一日)

松陰にとって、「天壌無窮の神勅」は、日本の独立とみずからの尊攘運動の成就を保証する「神聖な約束」であった。しかし松陰は、それがあくまでも「万国皆同じ」な「鴻荒の怪異」であることを忘れることはなかった。すなわち、「神勅」は「皇国」固有の「神聖な約束」であって、「万国」における普遍的な「約束」ではなかったのである。松陰にとってこの日本の固有性が、いかに位置づけられていたのかを、本発表では松陰と老朱子学者・山県太華(一七八一〈天明元〉?一八六六〈慶応二〉)との論争を中心に明らかにするものである。

松陰は、日本の固有性(「皇国の体」)を主張するのと同時に、世界における普遍(「五大州公共の道」)の存在を認める点で、矛盾した思考様式を成している。この矛盾を含んだ松陰の固有主義に比べれば、確かに日本の固有性を特殊性に解消する太華の徹底した普遍主義(「天地間一理」)は、合理的な妥当性を有していたといえよう。しかし、はたして太華の普遍主義は、現前する諸国家の相違を乗り越えうるものであったかについては、疑問を呈せざるを得ない。太華の「天地間一理」とは、あくまで形而上学的な「理」に基づく抽象的普遍であって、「天下」における具体的問題に対応しうるものではなかったのではないだろうか。

松陰は、日本の固有性(「皇国の体」)を主張する一方で、その固有性を単に日本のみだけではなく、世界万国相互に認め、その相互承認にもとづいて、世界における普遍(「五大州公共の道」)がかたちづくられると考えていたのであり、この点にこそ明治国家において喧伝された「金甌無欠・万邦無比」の「国体」とは異なった、松陰における日本の固有性の模索の意義があったのだと言えよう。また本発表が明らかにした幕末における普遍と固有の思惟様式は、地球的規模の普遍としての「万国公法」における固有としての諸国家の関係を論ずることに資することとなろう。

2004年10月08日 (金)

今日のお題:水戸学における会沢正志斎の位相――国体論を中心に(明治維新史学会2004年秋季大会、2004年10月8日)

後期水戸学(以下水戸学)における尊攘論を首唱した師弟のラインとして、藤田幽谷―会沢正志斎―藤田東湖があることは周知の事実である。しかし、これら三者についての研究には少なからぬ偏りがあった。それをひとことでまとめてしまえば、「戦前の東湖・戦後の会沢」ということになろう。
戦前における会沢評価は、意外なほどに低い。たとえば幽谷・東湖には全集が存在していたのに対し、会沢に全集が編まれなかったという事実は、戦前における会沢評価の一半を示している。もとよりそれは会沢の著作の多さに起因することも否定できないが、やはり、晩年の彼が尊攘激派ではなく、鎮派を支持したという事情が、明治以後の会沢の評価を低からしめていたのであろう。

戦前におけるこのような会沢評価に対し、戦後は皇国史観や国体論への批判とともに、水戸学における国体論の理論的思想家(イデオローグ)として会沢がクローズアップされることとなり、

だが、近代国体論の持つこのような理論的脆弱性は、その誕生のときから運命づけられていたのではない。会沢正志斎にとって、国体の尊厳性は、万世一系にではなく、儒学経典という客観的規準にもとづいた「東方君子国」説に根拠するものにほかならなかった。本稿は、会沢における国体論の理論的基盤を明らかにし、ついで幕末において、その国体論がいかに変容したかを論ずることを目的とするものであり、このことは同時に、近世国体論が天皇制国家のイデオロギーとしての近代国体論に転化した際に起きた思想的転回の考察に資するものとなろう。

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