2008年08月24日 (日)

今日のお題:「「聖典」を求めて――河口慧海と「日本仏教」」(2008年度日本思想史研究会夏季セミナー「「古典」を考える」、福島県磐梯熱海温泉・金蘭荘花山、2008年8月23日?24日)

本発表は、近代日本における仏教者である河口慧海(1866?1945)の思想を、その二度の入蔵(チベット行)における相違をふまえつつ論ずるものである。河口は、日本人としてはじめてチベットに入った人物として知られ、その研究もチベット探検家としての側面が中心であった。

19世紀における「文明国」たちは、地図上の「空白」を塗りつぶすために、「野蛮・未開」の地を踏破することにしのぎを削っていた。それは一方では帝国主義の運動のしからしむるところであったが、他方で未知なる対象を既知としようとする「科学的」な動機に起因するものでもあった。しかし河口がはじめて入蔵した動機に存在していたのは、そのような「文明」的背景だけではない。むしろ彼には、真なる「釈尊の金口」を希求する心こそがあったのである。

「大乗非仏説論」に対して終生強い反駁を加え続け、梵蔵経典の中に真実の教え(「仏説」)を見出そうとした河口は、その「原理主義」(奥山直司)的な経典解釈ゆえに、ついに「日本仏教非仏説」にまで到達する。本発表では、「唯一の大乗国」という日本仏教におけるナショナリズム言説と仏教の近代化との狭間の中で彼が逢着した地平を明らかにしたい。このことは、近代における「聖典性」を有したテキストの存在形態の考察に資するものともなろう。

参考文献

河口慧海『チベット旅行記』講談社学術文庫1978年(1904年刊の復刻)
河口慧海『第2回チベット旅行記』講談社学術文庫1981年(1966年刊の復刻)
河口慧海/奥山直司編『河口慧海日記――ヒマラヤ・チベットの旅』講談社学術文庫2007年
高山龍三編著『展望河口慧海論』法蔵館、2002年
奥山直司『評伝河口慧海』中央公論新社、2003年

2008年08月01日 (金)

今日のお題:「帝国」の誕生:19世紀日本における国際社会認識(黄自進編『東亜世界中的日本政治社会特徴』台北・中央研究院人文社会科学研究中心亜太区域研究専題中心)、2008年、139?164頁

   はじめに(脚注省略)

1945年の第二次世界大戦の終結にともない、「帝国」を自称する国家が次々と消滅していったのちも、「帝国」という言葉は、分析概念(あるいは政治的標語)としての「帝国主義」の語とともに人口に膾炙されたが、1990年代におけるマルキシズム思潮の後退は、この意味における用法をもなかば死語化させることとなり、それ以降は、国際政治における強権性を表現する比喩として用いられるに過ぎなくなった。しかし、A・ネグリAntonio NegriおよびM・ハートMichael Hardt両氏の共著になるEmpire(2000年)が世に問われ、東アジア諸国で『帝国』と翻訳されたことによって、この語は再び国際秩序を叙述する術語として用いられるようになった。

ネグリ氏らが「帝国Empire」と呼んだのは、アメリカ合衆国のような本来主権国家でありながら、同時にその枠組みを逸脱した新しい国家主権のありようであった。グローバリゼーションの進展にともなって現れたこの「帝国」は、本来有していたみずからの領域(国境)を越え、他の領域(主権国家)を周縁化していく存在であり、それは、その権力がみずからの領域内において、均質的に、そして排他的に存在していた近代主権国家とは本質的に異なっている。

しかしながら、「帝国」ということばが、東アジアにおいて広く受容されたとき、それは、ほかの政治主体を周縁化する存在としてではなく、むしろ或る限られた領域を有する近代的な独立主権国家の謂で用いられたのであり、その第一条に「大韓国は、世界万国に公認された自主独立の帝国である」と規定された「大韓国国制」(1899年)は、まさに「帝国」がいかなる意味で受容されたかを示すものと言えるであろう。すなわち「帝国」は、冊封された国王の治める「王国」とは異なり、主権者たる元首としての皇帝が治める独立不羈の一国家として認識されていたのである。
また中国史上、唯一「帝国」の名を冠する国号を持った国家が、袁世凱が中華民国に代えて建国宣言した中華帝国(1915年・3ヶ月で廃絶)であったことは、象徴的であった。すなわち主権者の所在を明示することばとしての「民国」の対語をなす「帝国」は、「民国」同様、近代的国家概念の範疇におけることばであり、この点で袁の中華帝国は、周縁性を有したかつての王朝国家とは断絶しているのである。

このようなすぐれて近代的な意味を有する「帝国」ということばの用例を、中国古典に求めることはできない。なぜならば、そもそもこのことばが、keizerrijk(皇帝の国)というオランダ語を翻訳した徳川時代後期の蘭学者が造ったものであり、いわゆる近代漢語の一種だからである。このことは、1866(慶応2)年刊の堀達之助編『改正増補・英和対訳袖珍辞書』に、「Empire」を「帝国」と記しているのに対し、中国で出版されたW・ロプシャイトWilliam Lobscheidの『英華字典』(1866?1869年)には、「Empire」を「国、皇之国、中国、中華、天下」などと記すだけで、「帝国」の語が見えないことからも容易に知ることができる。

ことばはたんなる文字や音声ではない。或る対象を、「それ」として認識するための意識を形作る根本的な観念なのであって、ことばのないところに認識はない。「帝国keizerrijk」もまた同様であり、18世紀末日本蘭学者が、このことばを生み出したことにより、それ以降の日本知識人は、この「帝国」なる新語をもって世界を分節し、また自己をそのうちに位置づけていくことが出来たのである。以下本稿は、「帝国」をめぐる言説の受容を通して当時の日本人における世界認識の転回を明らかにするものである。

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