今日のお題:「安心安全」を求めて
今や「安心安全」は、日本国民すべての希求するところとなり、これに反するものは、許されざる存在ともなっておりますが、それにしてもあまりに氾濫しすぎているのではないかと感じたりも致します。
「じゃあ、オマエは『安心安全』が要らないのか」と言われると、そうではないのですが、少なからず、何のための「安心安全」なのかということを疑問に思わざるを得ないようなことも無いわけではないので、そのように考えるわけです。
たとえば、こんなお話。
「カロリーゼロ」や「糖質ゼロ」などを明記した「ゼロ食品」ブームが続いている。この1月、調味料メーカーのピエトロはドレッシングの主力商品で「ゼロ表示」を始めた。ふた部分に「コレステロール0(ゼロ)」という文言を追加。昨年6月からライトタイプの商品で試験的に実施したところ、売り上げが10%アップしたのを受け主力品での表示に踏み切った。「中身は同じなのに売り上げが伸びるのは異例。ゼロ表示の効果は非常に大きい」と池田邦雄取締役は驚く。〔中略〕“過剰”なゼロ表示への葛藤もある。複数の植物油製品に「コレステロール0」と表示するJ-オイルミルズ。コレステロールは動物性油脂には含まれるが、植物性油脂には基本的に含まれない。品質・環境部長の横溝和久氏は「元来ないものをゼロ表示で強調するのは、誤解に付け込むマーケティング手法だという認識はある。できればこんな表示はなくしたい」と胸の内を明かす。
(ゼロ食品氾濫が映す、食品表示の後進国ニッポン (東洋経済オンライン) - Yahoo!ニュースhttp://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20110128-00000000-toyo-bus_all)
ほかの会社にも、本来入る余地のない保存料を「ゼロ」と言ったりしているようです。こういったお話し自体の当否は別にして、当方が問題にしたいのは、「安心安全」ということばが、一人歩きしているという現状であります。
かつて中曽根元総理は、「3A政策」というのを唱えたそうです。「3つのA」というのは、「安心・安全・安定」だそうで、上手く考えたものではあります。
国土及び国民の生命、身体、財産を災害から守って国民生活の安全性を高めることは国政の基本でございます。私は過般の予備選中に、安心、安全、安定ということを申し上げましたが、この安全の中には地震や災害に対する被害から国民を守るという考え方が基本にあったのでございます。(第97回国会・参議院本会議1982年12月09日、中曽根総理大臣所信表明演説に対する質疑への応答)
中曽根政権時代の3Aは、あくまで「安全保障」という意味での「安全」に立脚した「安心」「安定」なわけで、その中心は「安全」なわけでありますが、考えてみますと、私どもの「安心安全」には「安定」が欠けているのではないかと思います。
新聞紙上でこの「安心安全」が頻出してくるのが1995年ごろのようで、この年は、阪神大震災や地下鉄サリン事件などがバブルの崩壊という経済状況とともに日本社会にのしかかってきた時節でもあります。事実、建設省・厚生省の肝煎りで「安心安全街づくり研究会」なる組織ができたのも、この頃であるようです。
阪神大震災を教訓にした防災と福祉を一体化したまちづくりを厚生省と建設省でつくるために勉強会を持った。そして、安心・安全街づくり研究会をつくって、震災復興中の神戸市、東海沖地震対策の強化地域の静岡市、はたまた大火復興を経験し、拠点都市整備で中心商店街の再生に取り組んでいる酒田市がこれに選ばれました。(酒田市議会 会議録検索システム 平成7年9月 定例会(第4回) ? 09月12日・03号)
このように考えますと、「安心安全」のはじまりは、物理的あるいはハードの問題であったと申せます。しかしこの傾向は、2000年ごろを境に、食品の安全といった生活そのものの問題へとシフトしていくことになります。
店頭の食品を購入する際、私は安心安全の目安として、有効期限を確かめ、なるたけ指定期限に余裕のあるものを選ぶことにしています。
(オピニオン「食品の表示はもっと鮮明に(声)」『朝日新聞』2000年07月15日朝刊16面)
エコ買いということばが使われるようになった今日では、なかなか言いにくいことをおっしゃっておりますが、それはさておき、ある意味、「安心安全」なるもの対象が無分別に拡大していったとも言えます。それは、社会一般における「安定」が失われていったという共通認識と無関係ではありますまい。
生活に「安心安全」を求めることは、誤りではありません。むしろそれは希求されるべきことではあります。しかしながら、みずからの「不安定」を担保しようとするあまり、その生活のすべてにおける「無謬の安心安全」を盲目的に求めることは、むしろ冒頭に挙げたような「誤謬の安心安全」をもたらしかねません。
どうやっても代替不可能な農薬を使用していることを理解しない無農薬無謬論者は存在します。なんのための「安心安全」なのかということを考えてみる必要はあるのではないでしょうか――といったことを、この前出席した研究会から思い至った次第。
「じゃあ、オマエは『安心安全』が要らないのか」と言われると、そうではないのですが、少なからず、何のための「安心安全」なのかということを疑問に思わざるを得ないようなことも無いわけではないので、そのように考えるわけです。
たとえば、こんなお話。
「カロリーゼロ」や「糖質ゼロ」などを明記した「ゼロ食品」ブームが続いている。この1月、調味料メーカーのピエトロはドレッシングの主力商品で「ゼロ表示」を始めた。ふた部分に「コレステロール0(ゼロ)」という文言を追加。昨年6月からライトタイプの商品で試験的に実施したところ、売り上げが10%アップしたのを受け主力品での表示に踏み切った。「中身は同じなのに売り上げが伸びるのは異例。ゼロ表示の効果は非常に大きい」と池田邦雄取締役は驚く。〔中略〕“過剰”なゼロ表示への葛藤もある。複数の植物油製品に「コレステロール0」と表示するJ-オイルミルズ。コレステロールは動物性油脂には含まれるが、植物性油脂には基本的に含まれない。品質・環境部長の横溝和久氏は「元来ないものをゼロ表示で強調するのは、誤解に付け込むマーケティング手法だという認識はある。できればこんな表示はなくしたい」と胸の内を明かす。
(ゼロ食品氾濫が映す、食品表示の後進国ニッポン (東洋経済オンライン) - Yahoo!ニュースhttp://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20110128-00000000-toyo-bus_all)
ほかの会社にも、本来入る余地のない保存料を「ゼロ」と言ったりしているようです。こういったお話し自体の当否は別にして、当方が問題にしたいのは、「安心安全」ということばが、一人歩きしているという現状であります。
かつて中曽根元総理は、「3A政策」というのを唱えたそうです。「3つのA」というのは、「安心・安全・安定」だそうで、上手く考えたものではあります。
国土及び国民の生命、身体、財産を災害から守って国民生活の安全性を高めることは国政の基本でございます。私は過般の予備選中に、安心、安全、安定ということを申し上げましたが、この安全の中には地震や災害に対する被害から国民を守るという考え方が基本にあったのでございます。(第97回国会・参議院本会議1982年12月09日、中曽根総理大臣所信表明演説に対する質疑への応答)
中曽根政権時代の3Aは、あくまで「安全保障」という意味での「安全」に立脚した「安心」「安定」なわけで、その中心は「安全」なわけでありますが、考えてみますと、私どもの「安心安全」には「安定」が欠けているのではないかと思います。
新聞紙上でこの「安心安全」が頻出してくるのが1995年ごろのようで、この年は、阪神大震災や地下鉄サリン事件などがバブルの崩壊という経済状況とともに日本社会にのしかかってきた時節でもあります。事実、建設省・厚生省の肝煎りで「安心安全街づくり研究会」なる組織ができたのも、この頃であるようです。
阪神大震災を教訓にした防災と福祉を一体化したまちづくりを厚生省と建設省でつくるために勉強会を持った。そして、安心・安全街づくり研究会をつくって、震災復興中の神戸市、東海沖地震対策の強化地域の静岡市、はたまた大火復興を経験し、拠点都市整備で中心商店街の再生に取り組んでいる酒田市がこれに選ばれました。(酒田市議会 会議録検索システム 平成7年9月 定例会(第4回) ? 09月12日・03号)
このように考えますと、「安心安全」のはじまりは、物理的あるいはハードの問題であったと申せます。しかしこの傾向は、2000年ごろを境に、食品の安全といった生活そのものの問題へとシフトしていくことになります。
店頭の食品を購入する際、私は安心安全の目安として、有効期限を確かめ、なるたけ指定期限に余裕のあるものを選ぶことにしています。
(オピニオン「食品の表示はもっと鮮明に(声)」『朝日新聞』2000年07月15日朝刊16面)
エコ買いということばが使われるようになった今日では、なかなか言いにくいことをおっしゃっておりますが、それはさておき、ある意味、「安心安全」なるもの対象が無分別に拡大していったとも言えます。それは、社会一般における「安定」が失われていったという共通認識と無関係ではありますまい。
生活に「安心安全」を求めることは、誤りではありません。むしろそれは希求されるべきことではあります。しかしながら、みずからの「不安定」を担保しようとするあまり、その生活のすべてにおける「無謬の安心安全」を盲目的に求めることは、むしろ冒頭に挙げたような「誤謬の安心安全」をもたらしかねません。
どうやっても代替不可能な農薬を使用していることを理解しない無農薬無謬論者は存在します。なんのための「安心安全」なのかということを考えてみる必要はあるのではないでしょうか――といったことを、この前出席した研究会から思い至った次第。