2011年03月21日 (月)

今日のお題:PCに到達

懸案であった自室のPCにようやく到達しました。とはいえまだ電源を投入してはいないのですが、これで12日目にしてようやく通常業務がはじめられます。

文学部内の研究室でも壊れたPCがあったりして、PCの更新をしたりしているのでしょう。新規接続の申請が結構な量になってきました。いろいろと小手先で対応していたのですが、そろそろ破綻しかけていたので本当に良かったです。

2011年03月20日 (日)

今日のお題:ガソリンを入手

今日から新しいカテゴリをつくりました。どうも、これが単なる日常であるというのはおかしい気がしまして。

と、申しますのも、ついにガソリンを入れることが出来たのですが、最終的には1時間半で20リットルという結果。妻の友人で八戸にお住まいの方によれば、あちらは5時間とか言うことだそうなので、それに比べれば問題はないのですが、「1時間半で20リットル」というのは、なんかすごいことになっているなと思った次第。

公共交通機関がまともに動いていない以上、どうしても自動車は必要になります(自転車ももちろん使いますが)。もちろん市バスが努力をしているのはわかります。バスが動いているのを見るだけで安心感を覚えるのですが、実際にはダイヤがまったく機能せず、30分?1時間に1本というのだけでは、少々困ります。この点は、残念なことです。

結局今日やったことは、街に出て、ガソリンを入れて、カレーを作って、食べて寝たというなんとも怠惰なことでございます。

2011年03月19日 (土)

今日のお題:ついに着手

地震があってから一週間以上まったく手を付けていなかった自室の片付けに着手しました。

そもそも壁にボルト付した本棚が外れている時点で、耐震というものの限界を感じるわけですが、とにかく本の落下が尋常ではありません。よくこれで無事だったなぁと、携帯に入った緊急地震速報に感謝したりするわけです。

さすがに一日では片付けられないので半日ほど作業して、帰宅し昼飯をいただく。あたたかい御飯がいただけるありがたさよ。

仙台市街から少し離れたところに営業している温泉があるというので、「3時間待ち」という電話でのお話を覚悟しつつ行って見ました。実際には1時間もかからず入ることが出来、久方ぶりの風呂に感謝します。

よく考えると、朝飯→片付け→水確保→昼飯→風呂→夕飯→就寝と、まるで何もやっていない一日なのですが、なぜか疲れます。すべてのことにおいて通常より時間が2?3倍ほどかかるのがなんとも。

2011年03月18日 (金)

今日のお題:ふたたび断水

出ていた水ですが、ふたたび止まりました。と、いうかどうやら宿舎のタンクにたまっていたものが使えていただけのようで、水やらガソリンやら生活物資の確保やらに追われております。

やはり水が無くなったのは大きな事で、水というものを必要量確保することが食料以上に難しいことが理解できました。

水についてはあと10日ほどで復旧するということなのですが、ガスが1ヶ月以上使えないということで、煮炊きだけではなく、風呂に入れないという事態が現実的な問題として現れて参りました。まぁ、なにか策を立てて対応するしかないのでしょうが、あらためて仙台が「被災地」であることを実感した次第。

そんな中、新潟大学からの支援物資が到来。おにぎりです。有難く頂戴しましたが、米はかなりあるので、ちょうど研究室にいた学生2人にあげました。なんとも有難いことです。

2011年03月17日 (木)

今日のお題:

雪が降りました。

何でこんな時に、と思いますが、未だ通水していないお宅では、雪を集めて溶かしてトイレの水などにされるということです。当方の自宅では水は水勢は怪しいながらも何とか出ているので、伺うときはペットボトルに水を詰めてお持ちすることにしています。

惜しむらくはペットボトルが足りないと言うことです。なんとも悩ましいことです。

2011年03月16日 (水)

今日のお題:研究はお休み

記事のカテゴリは日常ですが、非日常の日常です。

今日の仙台は、朝から雪です。久敷く履いていなかった長靴で、雪の中、大学へ参りました。

東北アジア研究センターの方の被害が非道く、事務室が文学部に避難してきました。本来、ネットワークの体系が異なっているので、繋げば使えるというというわけでもなく。

事務の方々のPCすべての接続を登録することはとんでもなく大変ですし、そもそも登録用の端末が使えない状況ですから正直ムリです。仕方がないので、ルータを設定して、これから自動接続してもらうことに。

避難先のお部屋は、TV(アナログ)はあるのにケーブルがないという間の抜けた状況で、ひとまずNHKのユーストリーム版を見て、情報を得てもらいました。すばらしいサービスだと思った次第。

そののち荒廃した自室よりケーブルを発掘し、TVも見られるように。何でも取っておくべきものです。まぁ、そういうことをしているからこういう時に雪崩になるのですが。

なお、現状こんな感じです。今日、メール等で案内した内容です。

1 現在コンピュータ室の内線はご利用いただけません。基本的にはメールでご連絡ください。
2 PCサポータ室も当面閉鎖いたします。
3 コンピュータ実習室は、機体の被害が大きく当面使用できません。
4 宮城県には計画停電は実施されないとの発表(2011/03/16現在)ですが、これ以外の停電等でサービスが利用できなくなる可能性があります。
5 現在webサーバのバックアップHDDにエラーが見られます。喫緊の被害ではありませんが、研究室等でも適宜webデータのバックアップをお取りください。
6 新規接続等の申請については、大幅に遅滞します。

このブログに稼業(家業ではなく)のネットワーク管理のことを書くことはほとんどありませんが、今回は特別です。当面家業(稼業ではなく)の研究はお休みします。

段々現実が見えて来ました。とても、大変なことでした。

2011年03月15日 (火)

今日のお題:電源復旧

東北関東大震災に伴い、メール・webサーバともに落ちていましたが、先ほど復旧しました。オフィスはメチャクチャですが、情報インフラは回復しています。

文学研究科から、下記の案内が出ているので、転載します。

3月11日の東北関東大震災による影響を調査しています。教職員学生で、まだ研究室経由で連絡が取れていない方は、

anpi@sal.tohoku.ac.jp

宛てに安否・所在情報をお知らせください。研究室名、学年、学籍番号なども添えていただくと助かります。

2011年03月05日 (土)

今日のお題:桐原健真「死して朽ちず:吉田松陰の死と生」、財団法人東北多文化アカデミー・多文化講座「介護と看取りのセミナー」、仙台市・東北多文化アカデミー、2011年03月05日

多文化講座のご案内
http://tabunka.seesaa.net/article/180514217.html

以前論文に書いたものをふまえたものではあるのですが、やはり自分自身の論文や、これまで見慣れていた資料を読み返すと、その都度新しい発見があります。

と、いうか、発見の余地のある論文を出すのは如何なものか、という所ではありますが。

で、今回改めて思ったのが、再投獄中の1859年春ごろの、いろいろな意味で痛々しい時期に松陰書いた次の書翰。

今日の事、万成らざるに期す…然れども僕にして能く死せば、亡師友に負かずと為さん。是れ僕の安心立命、諸友と同じからざる所以なり…子遠兄弟は、僕、少しくも哀みて之れを惜しまず。人孰れか死なからん、兄弟同じく王事に死せば、忠孝尽せり、死すと雖も朽ちず。(「福原又四郎に復す」1859年03月05日頃)

むかし注目していたのは、後半部分の入江杉蔵(子遠)兄弟にも自分と同じように死んで欲しいといういわば死の強要の箇所だったのですが、あらためて読んでみると、核心部分は前半の「僕にして能く死せば、亡師友に負かずと為さん」であるように思えてきた次第。

注目すべきは「能く死せば」の「能く」つまり「可能」の「能」であります。すなわち、この「よく」は、「良不良」の「よく」ではなく、「能不能」の「よく」なわけです。

これまで、「嗚嗟、『能く』だよね」と意味の上でわかったつもりになっていたのですが、この一字の重みに、今回改めて思い至りました。「僕にして死せば」と「僕にして能く死せば」との間には、かなりの違いがあります。

「自分にとっては、死ぬことが出来れば、すでに無くなった師匠や友人に顔向けが出来るといえます」と松陰は言うわけですね。たんなる仮定として「自分が死んだら」といっているわけではないところがキモなのでしょう。

死ねばすべてが解決される――そこには徹底的に手段化された結果、自己目的的になってしまった死だけが存在していると申せます。まさに松陰の絶望の深さが読みとれるところではあります。

しかしこの松陰は、やがてこの絶望の淵から鮮やかに転生します。先日兄とともに死んでくれることを臨んだ野村和作に宛てて次のように言うのですから、さぞかし弟子も驚いたことでしょう。

此の道至大、餓死・諫死・縊死・誅死皆妙、却きて一生を偸む亦妙。一死実に難し。然れども生を偸むの更に難きに如かざる事始めて悟れり。(「野村和作宛」1859年04月ごろ)

死んでも良いし、生きていても良い。死ぬのは大変だが、生き続けるのはもっと困難なことなのだ。「賜死周旋」――自分が死罪になるよう周囲の人々に働きかけ、盲目的に死を求めていたのは、ひとえにその困難を避けていたに過ぎない。

このように悟った松陰は、「出来る事をして行き当つつれば、又獄になりと首の座になりと行く所に行く」(「品川弥二郎宛カ」1859年04月22日)とまで言うようになります。

しかし、このように松陰が死から生へと大きくその立場を転換した直後、安政の大獄の波が彼を襲うこととなり、みずから予言していた「首の座」へと進むことになりました。

この松陰の死が、彼の友人や弟子達を鼓舞したことは確かです。しかし、松陰は、彼れらを鼓舞するために死んだわけではありません。彼の死は、あくまで「出来る事をして行き当」った結果でありました。松陰は自分の出来うる限りのことをした上で、その生を終えたのであり、その死になにか特権的な意味を付すことは彼の意をかえって損なうものであるのかもしれません。

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