2011年04月27日 (水)

今日のお題:心の相談室

心の相談室
http://www.sal.tohoku.ac.jp/kokoro/

というものが始まりました。


*設立の理念

今回の大震災では、宮城県に限った死者だけでも2万人にのぼると予想されています。そのような状況において、弔いから悲嘆ケアまで、一貫した切れ目の無いご遺族に対する支援を行うことを目的に「心の相談室」は設立されました。

 これまでの日本では、死者の弔いは宗教者の責務と位置づけられてきました。しかし今回のように未曾有の大量死に直面した時、その弔いは宗教者にとって、宗派教派を越えて広く取り組むべき大きな課題となっているものと思われます。もちろん弔いの儀礼が継続的に行われる一方で、残された遺族に対しては悲嘆ケア、さらには生活の再編に至る包括的な支援が必要になってくることは言うまでもありません。

 その意味で、ご家族に不慮の死者が出てしまったご遺族に対しては、宗教者だけではなく、悲嘆ケアの専門家、さらには医療や生活支援の専門家が一体となって支援していかなければなりません。「心の相談室」では、宗教者による弔いを手始めに、ご遺族に対する包括的な支援を提供する仕組みを構築していきます。


今後の活動につき、どうぞ宜しくお願いいたします。

2011年04月18日 (月)

今日のお題:書類地獄

仙台は被災して諸事不如意ですが、中央はそうではなく、出さないとイケナイ書類であるとかが少なくはありません。

多少は配慮してくださっているのが本当に有り難い。

2011年04月17日 (日)

今日のお題:花見

西公園の方で花見の設営が始まったと以前お話しいたしましたが、今日は日和も良い日曜日で、前を通ったところ本当にたくさんのお客さん。ああ、みんな花見がしたかったんだなぁと思った次第。

まぁ、地下鉄工事だかでずいぶんとサクラが可愛くなってしまったのですが、それでもしっかりと咲いております。

戦時中は花見なんかやらなかった、あの一体感はスバラシイと仰った方がおられるそうですが、実際どうなんだろうと見てみますと、『朝日新聞』の1942年12月19日朝刊には、「花見などは戦争後だ 帝都の薪に桜の木 近県から温い友情供出」といった見出しでもって、こんな記事を載せております。


茨城県那珂郡瓜連町などは早速町常会を開き、花見は戦争が済んでから役場の構内の桜の木まで枝を払つて薪にしたり、日雇のお婆さんさへ、一束二十五銭で買ひ求め五銭損して供出値の二十銭で提出するなど、数々の美談を生んだ。


なるほど、確かに一体感でございます。しかしながらコレは、自発的にというわけではなく、次のような背景があったことを見逃してはいけません。


寒さに向かつて薪不足に悩む帝都市民への親心から内務省では近県に事務官を派遣草鞋履きで薪の援軍を求めさせたところ、農民の熱誠により、茨城県が十二月末まで二百五十万束、栃木県が十三日から二十日までに五十万束の大量供出を約束。初めの予想量三十万束をはるかに突破するといふ地方と都会を結ぶ美はしい実を結んだ。


つまり内務省の音頭でこういう「美談」が生まれた訳でございます。とは申しながら、「親心」――これは『朝日』が勝手に言っているだけですが――からコトが始まったのも事実です。翻って、はたして今や親心なるものがあるのだろうかと考えてみると、なんとも寂しい感じも致します。

ちなみに『読売新聞』では、1942年4月3日朝刊に「一枝を戦線へ 感謝にひらく桜花」といった記事を載せております。


桜が咲いた。年々歳々かはらぬ花だが、戦捷の春見る心は格別である。「この花の一枝を戦線におくりたい…」と花見る人がいふ。何はなくとも爛慢〔ママ〕たる花の下なら人は楽しい


まぁ、まだ連戦連勝の時期なので、のんきに花を見ているのかも知れません。何はなくとも花を見たいというのは人情と言えば、人情ですかね。

2011年04月16日 (土)

今日のお題:存在への不安

$FILE1_l地震が来たので本棚から本が落ちました。

落ちた本を戻したら、また地震が来て本が落ちました。

また本を戻したら、耐震作業をするために本をはずしてくださいと言われました。

どうも、このところ本棚は本を収納するという機能を果たしておりません。本を置くことが出来ない本棚は、本棚ではないのか、それでも本棚なのか、そういった存在の不安定さを感じながら、自分で本を下ろす日々。(写真は専門研究室の方)

2011年04月15日 (金)

今日のお題:第三のセカイ

今回の震災を「第三の敗戦」と言っている方がおられるそうです。というか、堺屋太一氏なんですが。もうすでに、オープンソースでは見られなくなってしまったので、一応こんな感じで、世間様では話題になっているということをご案内しておきましょう。

東日本大震災は、日本にとって「第三の敗戦」である。 - Google 検索

で、どのようなことをおっしゃったかと申しますと、だいたいこんなことです。


*[論点]大震災からの復興 「それ以前の日本」に戻すな 堺屋太一氏(『読売新聞』2011年04月12日付朝刊07面)

東日本大震災は、日本にとって「第三の敗戦」である。第一の敗戦は、1863年の薩英戦争と、翌年の四か国艦隊による下関砲撃、馬関戦争だ。この敗戦で、強いと思われていた武士が実は弱い、身分と様式美に守られているだけだということがわかり、5年後に明治維新が起こった

第二の敗戦は、1945年の太平洋戦争の敗戦だ。大日本帝国というコンセプト(概念)が間違っていたことがわかり、軍務官僚や内務官僚の主導をやめて、経済官僚主導で業界協調体制を作った。その結果、一時は、世界で最も完璧な近代工業社会を実現した。

過去2回の敗戦で、日本はそれ以前よりずっと素晴らしい国になった。それは、「それ以前の日本」に戻そうとしなかったからだ。

〔中略〕

私たちは今、これまでの体制とか、その根本にある倫理観とかを捨てて、全く新しい国づくりをしないといけない。

〔以下略〕



「全く新しい国づくりをしないといけない」というのは、その通りだと思いますが、「第三の敗戦」というのは、はたしてどこからやってきたことばなのでしょうか。私どもは、いつどこで戦争をやっていたのか、というのがどうにも心に引っかかります。

実際のところ、この「第三の?」という表現は、「第三の開国」とペアになっているのではないかと思うのです。

つまり、

-第1回 ペリー浦賀来航(1853年)
-第2回 マッカーサー厚木来着(1945年)

に続く、「第三の開国」でございます。

アメリカによる占領とこれに続く復興を「第二の開国」ととらえる見方は、今日、随分広く受け入れられてるように思いますが、そもそもマッカーサーは、来た当初から自分とペリーを重ねていたようで、降伏文書の調印式を行ったミズーリ号の甲板には、ペリー艦隊の掲げた星条旗が飾られており、さらにこんな演説までしております。


今日われわれは、92年前のわれらが同胞たるペリー提督を想起reminiscentしながら東京に立っている。彼の目的は、日本に啓蒙と進歩の時代をもたらし、世界の和親と交易そして通商に対する孤立のベールを引き上げることであった。しかし、已(やん)ぬる哉(かな)、これによって西洋科学から得た知識は、弾圧と奴隷化の装置へと変造されてしまったのである。
**Douglas MacArthur, Reminiscences New York : McGraw-Hill, 1964. pp.276.


「回想記Reminiscences」と題する著作の中で「想起reminiscent」するなんて、マ元帥シャレたことをするものですね。

まぁ、それは置いておくとして、この第一・第二に対して、「第三の開国」を喧伝することで、なんらかの社会変革改革を提議する言説というものが、1970年代頃から現れて参ります。

つい最近で申しますと、今年のアタマに日本の首相



一つ目の国づくりの理念、それは「平成の開国」です。……この第三の開国には過去の開国にはない困難も伴います。価値観が多様化する中、明確なビジョンを提示し、国民の総意を形成する努力を地道に積み重ねていかねばなりません。

**菅内閣総理大臣 平成二十三年 年頭所感



と申されております。

およそ「第三のほにゃらら」と申しますと、第一・第二の経験や反省が生かされているような感じがしますが、他方でそこには、日本が「負けている」とか「鎖国している」といった自己認識の存在を看取することが出来ます。

負けないと何も出来ないのか、あるいは万年引きこもりの国が日本なのか、という感じがとても致します。

なお、「第三の開国」言説については、論文を書いたのでそのうち出るはずです。いま、初稿の直しをしています。とはいえ、地震の前に書いたので、ずいぶんと色あせて見えるのですがね。

2011年04月14日 (木)

今日のお題:「踏ん張る」と「頑張る」

$FILE1_l大学のある川内から離れて、久しぶりに広瀬川を越えると、西公園のあたりにテントがいくつか列んでます。

炊き出しにしては、場所がおかしいですし、まず人気(ひとけ)がありません

どうやら花見の出店のようだと理解できたのは、数秒後のことでした。

花見ですか?。あの東京ですらやらなかった花見を、仙台はやるのです。
 
 
$FILE2_l大学でも、気分転換も兼ねて来週あたりに花見でもやろうかと言っていたのですが、仙台はヤル気です。このままでは春を終わらせないという熱気が感じられます。

花見会場の脇にあった立看には、「踏ん張ろう東北! 踏ん張ろう宮城! 踏ん張ろう仙台!」とありました。

「頑張ろう」という、どこに向かって放たれているのかよく分からないことばより、「踏ん張ろう」の方が力強い感じがします。いまここで踏ん張るしかないのですから。

2011年04月13日 (水)

今日のお題:リユースかリサイクルか

$FILE1_l居室に電子レンジが帰って来ました。Ya! Ya! Ya!

これで昼飯も居室で食すことが出来ます。これまでは弁当を温めるにも、他の電子レンジを持っている研究室などに行かないといけなかったので助かります。とはいえ、この電子レンジ、どこかおかしいです。

そう、ツマミが上下で異なっているのです。

まぁ、そもそも、この電子レンジを拾ってきた時点で、下の分数設定ツマミが無くなっていたので、これまではコンビーフだか何かの栓を取って付けていたのですが、これがまた良く落ちる落ちる

$FILE2_lこの地震で、そのツマミがついに無くなったので、あらたにツマミを探す旅に出たところ、このように素晴らしくぴったりとした――下地が見えてますが――ツマミを発見。元々はハロゲンヒータのツマミでした。この地震で、研究室の方のハロゲンが壊れたので、要らなくなったものを使用した次第。

いわゆるニコイチというほどのものではないのですが、まぁ、これでコイツの寿命も延びたということでめでたしめでたし。震災前より良くなったので、こういうのを創造的復興というのでしょう。>言いません。

ちなみにこの電子レンジは、温め時間が終了すると、「チーン」と鳴る非常に昔ながらのものなのですが、思うに、「電子レンジで温める」という作業を「チンする」あるいは「レンジでチン」と表現して理解できるのは、何歳以上あるあるなのでしょうか、と。

とか思ったら、今でも結構使われているのですね。

「レンジでチン」の検索結果 - Yahoo!ニュース

電話が「ジリリリリン」でなくなったのも、ずいぶん久しいように思いますが、「チン」が普通の電子音になるのはいつなのでしょう。

電話に関して予想するに、コントなどで電話をかける擬音には、早晩、「プププ・プププ・プププ」という連続音が入るようになるのではないかと。IP電話の時とかに入るアレですね。

2011年04月12日 (火)

今日のお題:文系学者は何を求めているのか

$FILE1_l文系学者には、「本に埋もれて生涯を終えるならが本望だ」とか嘯(うそぶ)く方が少なくございません。

まぁ実際に、枕元の本棚にある『資本論』をわざと落ちやすくしておいて就寝していたとかいう人がいるとかいないとか。当方の関心は、その『資本論』が大内訳なのか向坂訳なのかとかなのですが、もしかするとドイツ語なのかも知れません。フランス語とか言われると、ちょっと斜め上を行きすぎです。

さて、そういった与太話は置いておくとしまして、やはり大漢和に当たって怪我をするのは勘弁でございます。で、今回あらためてその威力を見直したのが、家具転倒防止ポールです。

当方の居室には、岩波文庫を入れた移動書架が二段重ねられておるのですが、天板に二本ポールを建てておいたところ幸いに倒れることはなかったです。いま文系の学徒が求めているのはコレなのではないかと思う次第。

それ以前に「本棚が壊れた」ということでお悩みの方もおられますが、当方もその一人ではあります。お陰で、本を置く場所が無くなりました。これは地味にイタイです。何をするにしても、本が何処にあるか全然分からないのですから。たぶん、あの山のどこかにあるのでしょうが、それをひっくり返すのも、よほど難渋しそうです。

とにかく、文系の人間は本が多い。これは職業病といっても良いかと。

とある研究室で出している雑誌も、この震災でエライ事になりましたが、「いっそ全部スキャンして、みんな捨てちゃえばいいんじゃないか」という意見が出てました。さすがに全部捨てるとまずいので、数部は残しておくとしても、スキャンというのはアリでしょうね。

$FILE2_lちなみに壁に打ち付けた書棚の方は、ボルトごと外れて本が全部落ちてしまいました。おそらく岩波文庫の書棚がほとんど落ちなかったのは、揺れの向きの問題もあるかも知れませんが、そこら辺、どうなのでしょう。

壁側の書棚は、とにかく本が落ちるのが怖いので、ストッパーを付けることにしました。べつに専用のそれではなく、本来は壁側に設置して本の背中を守るためのものなのですが、非常事態なので良いでしょう。本を前後に置くというあまりほめられた状態ではないのですが、まぁ、あとで整理します。菊判と文庫本の組み合わせなら結構奥まで見通せるので、そんな感じにしようかなと思ってます。

何にしましても、余震の多いことにはホトホト弱ります。夜中に起こされたりするのが、なんとも。ただでさえ無い生産性がさらに低下しております。というか、消費だけしているのか。

2011年04月12日 (火)

今日のお題:おしらせの魔法

余震が多いので、緊急地震速報を受信したいと思うようになりましたが、当方の部屋にはラジオがございません。もちろん携帯でも一応は入りますし、これで3・11の時は、大漢和辞典の雪崩に巻き込まれずに済んだわけでありますが、もう少々詳細な情報が欲しいと思って調べてみたところ、世の中には立派な方がおられるようで、まさにドンピシャなソフトウェアを公開されている企業さんがおられました。

まことにもってありがたい。

$FILE1_l高度利用者向け緊急地震速報専用受信ソフトウエア:SignalNow Express
http://www.estrat.co.jp/download.html

昨日一日使ってみたのですが、これが結構しっかりと知らせてくれます。携帯のエリアメールは、相当大きくないと鳴りませんので、これは大変に便利で、机の下に潜るだけの余裕をくれます。

とは申しながら、あの不協和音おしらせが鳴り響くのは、どうにも気持ちよいものではありませんが、すくなくとも、あいさつの魔法よりは何倍も有効であり、有り難いものではございます。

あんまり設定を低くしすぎると、速報が出っぱなしなので、あまり宜しくございません。当方は、ひとまずM6以上・震度4以上で設定しています。

携帯電話の緊急地震速報は、情報量が少ないと申しましたが、無いよりは余程ましだと思います。とはいいながら、どうもこのサービス自体が周知されていないようです。基本的には、デフォルトで使わないようになっているようなので、自分で設定しないと利用できないからでしょうか。

もし、ご利用でない方は、

○緊急速報「エリアメール」 | サービス・機能 | NTTドコモ
 http://www.nttdocomo.co.jp/service/safety/areamail/

○緊急地震速報 | EZweb | au by KDDI
 http://www.au.kddi.com/jishin_sokuho/

○緊急地震速報 | ソフトバンクモバイル
 http://mb.softbank.jp/mb/service/3G/EEW/#setting

あたりをご参照の上、ぜひ設定してみていただきたく。使えない携帯もあるようですが。
 
 
追記:「緊急地震速報の警報音を着メロにしてたら、袋叩きに合うだろうなぁ」と大学で話をしていたら、世の中には、さらに斜め上を行って、すでに配信済であったという事実を知り、呆れるやら、感心するやら

不適切な「緊急速報着信音」削除:東スポWEB?東京スポーツ新聞社
http://www.tokyo-sports.co.jp/hamidashi.php?hid=12653

まぁ、エリアメールの着信音としては、「適切」であるとも言えるかも知れませんが。

2011年04月11日 (月)

今日のお題:1ヶ月

震災一ヶ月ということで、まぁ一つの区切りではあるものの、また強い余震があって、感慨もあったものではないわけではあります。

先日、もう雪は降るまいと冬タイヤを交換するために、六丁の目のマツダに行きました。「ディーラーで交換するんだ」とかいうご指摘はご指摘として頂戴しまして、とにかく震災以来、結構雪が降ったんですよ。3回くらいでしょうか。

そういえば震災当日も降ってました。大学から帰るとき、北風で正面から吹き付ける雪に泣きながら帰ったことを覚えています。あのときもっと早く決断して、とっとと帰れば良かったのでしょうが、意味もなく様子見を――何の様子を見ているわけでもなく――していたのが敗因でしたね。

雪が多かったのは、やはり人間の活動が少ない分、温度が下がったせいなのかしらとウソ・いつわり・紛らわしいことを思ったりするのですが、さすがに4月も上旬を過ぎれば交換して良いでしょう。

で、車に乗って行ったわけです。まぁ、運転するのは当然のことながら、当方ではなく妻なのですが。

お昼を食していなかったので、どこか空いているところはないかと数軒の飲食店を覗いたものの、ことごとく休業中長蛇の列。昼時だからなのか、まだ立ち直っていないせいなのか。

そうこうしていると、まったく列んでもいないスキスキスーなラーメン屋を発見。美味しくラーメンを食せたことに感謝しながら、本道にもどるため、ちょっと裏手の仙台東道路・仙台東インターの手前にある脇道に入りました。

大きな側溝のような川の走る狭い道路沿いに走っていくと、なんとなく道路が汚い。と、申しますか、泥がそこかしこに見えます。もしかしてここまで津波が来たのかと思いましたが、やがて開けた水田地帯に出てくると、状況が一変しました。あれだけキレイに整備されていた水田が完全に失われています。電信柱がある辺りが、かつてあぜ道だったのでしょうが、その跡すら見えません。冠水して水が引いたあとの水田が復興するにはかなりのエネルギーが必要であるように思えました。

『日本三代実録』には「浩々として其の涯涘を弁ぜず」つまり「満々とした水で、そのみぎわがどこにあるか分からなかった」とありましたが、まさに、ここが、そのみぎわであったと申せます。海岸線から4?5キロは離れていると思うのですが、ここまで水が来たわけです。これが間違いであったれば、間違いであって欲しいと思いながら、マツダに行ってタイヤ交換をしてきました。

ディーラーさんには

「今度は、冬タイヤのセールの時にまたお越し下さい」

と言われ、「ずいぶん先のことを……」と思いましたが、なんにしても展望を持って生きていかないとイケナイと思い直した次第。

1/2 >>