2015年06月28日 (日)

今日のお題:桐原健真「鎖国日本」言説と永久開国論を問い直す。」、日本とアジアの未来を考える委員会『日本とアジアの未来を考える。』2巻、2015年3月、63-77頁

2015年3月とは言いながら、実際には最近手許に届きました。こういう場合、いつの成果になるのかがいつも考えどころではあります。

2015年06月20日 (土)

今日のお題:桐原健真「近世日本における「公論」観念の変容」(名古屋市・愛知学院大学楠元キャンパス、東海日本思想史研究会、2015年06月20日)

実は、東海日本思想史研究会というのが、今年の3月8日にこっそりと始まっていたのです。で、今日がその第二回目で、当方が発表するというお話し。

ちなみに予告要旨は以下の通り。

古典語としての「公論」は、しばしば「天下後世自づから公論有り」のような形で用いられる。ここからは、「公論=公正な議論」は、「天下後世」という広範囲かつ長期的な評価を俟ってはじめて成立するのだという認識が読み取れよう。

しかし、黒船来航以後に活発化する言論や政治的混乱は、「公論」ということばに、「公共空間での議論」という意味を与えていった。こうした「公論」は、やがて「公」を独占する「公儀」と対峙していくこととなる。

尊攘の志士たちは、「尊攘」の「大義」を「衆議」することこそ、「公論」であり、また「正議」であると信じていた。それゆえ、彼らを弾圧する安政の大獄は、この「正議」を否定する「私」であり、その排除は「公」にほかならない――こうした理論武装によって、幕府大老へのテロリズムは実行されたのである。

本発表は、こうした「公論」概念の変容を通して、幕末日本における言論空間の存在形態を検討することを目的とするものである。


「幕末」って言ってるんだから、タイトルの「近世日本」ってのは羊頭狗肉はないのかと思ったりしますが、「変容」がテーマだということでご寛恕賜りたいところでございます。

で、本論ですが、「公儀・公方」から奪った「公」が、結局「皇」に収斂しちゃうんだったら、元の木阿弥じゃないのかというご意見を頂戴し、嗚嗟、確かにそうだなぁと痛感しながらも、もはや「公」の独占が与件ではなくなるというのが、明治というものなんではないのかなぁと思ったり。

で、すっかりと五ヶ条の御誓文を忘れていまして、結局、明治国家も、「公論」というか、「公論する」ことの価値自体は否定しなかったんだよね、というサジェスチョンを頂戴し、オノレの不明を身に染みて感じた次第。

2015年06月04日 (木)

今日のお題:桐原健真「吉田松陰の視点―攘夷とは何か―」(間部詮勝シンポジウム、鯖江市・鯖江市文化の館多目的ホール、2015年05月23日〜2015年05月24日)

福井県鯖江市の間部詮勝シンポジウムに登壇して参りました。

福井県鯖江市>間部詮勝シンポジウム
http://www.city.sabae.fukui.jp/pageview.html?id=16275

間部詮勝の暗殺計画を立てた人間についてやってる当方を、よくもまぁお呼び下さったということで、恐縮の至り。

とはもうせ、実際に暗殺された井伊直弼とはちがって、未遂も未遂、計画を立てただけですので、まだ良いのかも知れません。

でも、あの人、
クーボール三門、百目玉筒五門、三貫目鉄空弾二十、百目鉄玉百、合薬五貫目貸下げの手段の事。
(「前田孫右衛門宛」1858(安政5)年11月06日)

なんて言っておりますんで、もはやこれは暗殺とかいう以前の武装蜂起と言っても宜しいかと。

そもそも薩摩の島津斉彬が、2,000人だか3,000人で卒兵上京しようとか言っていたのに比べると、随分と可愛い規模ではありますが、これが瀬戸内周りか日本海周りか分かりませんが、往き往きて進軍していたら、それはそれで面白かったかと。

どうも、松陰の所には、薩摩藩の上洛計画やら、伊井大老暗殺やら虚実入り交じった情報が来ていたようでして、彼自身、この流れに乗り遅れてはいけないと思っていたようでございます
御当家に於ては他藩の誘ふ迄も之れなく、勤王の御志確然たる御事に候へば、此の度〔上京〕の一挙に付き、下より御願申出づるには及ばず、謹んで御指揮待ち然るべき事に御座候へども、私共時事憤慨黙止し難く候間、連名の人数早々上京仕り、間部下総守・内藤豊後守打果し、御当家勤王の魁仕り、天下の諸藩に後れず、江家の義名末代に輝かし候様仕り度く存じ奉り候。此の段御許容を遂げられ下され候様願ひ上げ奉り候。以上。
(「周布政之助宛」1858(安政5)年11月06日)

「鶏口となるも牛後となるなかれ」という矜持なんでしょうか、ある種のセクト主義とも申せます。

などと書いては見ましたが、実際の発表ではそんなことはまったくお話ししておりませんで、そもそも求められたお題が「攘夷概念についての考察」なわけでして、これまたなかなか抽象度の高いお話しでございます。

とはいえ、鯖江にまで行きながら、間部の話がまるで出てこないとなると、少々申し訳ないので、一寸だけ話をしましたですよ。

とりあえず、改めて考えてみると「尊王攘夷」って変なことばだなぁということをお話しいたしました。そもそも「尊王攘夷」って、主語を考えると文法的に問題があるんじゃないかと。「尊王」は臣下の必須行為であるにしても、「攘夷」というのは明らかに主君の専権事項なわけで、臣下一般が手を出すべきことではないのです。「尊王」という道徳的信条が、「攘夷」という軍事的主張と結び付いたとき、政治的運動に転化していくというのが、「尊王攘夷」ということばの不思議というか大跳躍なところなのでございます。

2015年06月04日 (木)

今日のお題:桐原健真「吉田松陰の実像―「垣」を越える―」(広島市・広島県立総合体育館中会議室、ひろしま日本史を学ぶ会、2015年05月16日)

今回は「ひろしま日本史を学ぶ会」さんのお招きで一席打ってきた次第。

当方、広島は初上陸でございまして、ちょうど会場の対面が原爆ドームだったので、お決まりのように写真に収めたですよ。

原爆ドーム

さて、肝心の中身ですが、松陰の「実像」とまで銘打ってしまったからには、実像を描かなければならないわけでして、はたして、あの男の実像ってどんなもんだろうと考えて見たわけでございます。で、書いてみると、こんな感じです。
たしかに松陰という人物の生涯は、失敗の連続であり、その功を成したところは少ないと言わざるを得ない。試みに、彼の一生を一文で描き出してみよう。家学としての山鹿流兵学に失望し、代わって西洋兵学や蘭学を志すもほとんど成るところがなく、また仇討ちする友人のために脱藩するも本懐は遂げさせられず、さらに浪人となり諸国遊学に出るも黒船来航により世情は流動化し、その打開のため密航によって海外渡航を試みるも事破れて獄に投じられ、出獄後にやがて松下村塾を主宰して後身を教育するもわずか三年でふたたび投獄され、ついで獄中で策動を図るもことごとく頓挫し、最後に召喚された江戸では生還を期すもついに生きて帰ることはなかった。ことほどかように、松陰の生涯は「蹉跌の歴史」(徳富蘇峰)とならざるを得ない。(拙著『吉田松陰』)

……なんとも紆余曲折と申しますか、あの短い一生でここまでやったもんだと感嘆してもよろしいかと。

こういう紆余曲折を通して、あの「癸丑(1853)以前」に、自らに対峙する西洋に抵抗する自己を発見するという自他認識の転回を経たのであり、松陰の先駆性というのは、黒船以前に防衛する対象として日本を発見し、五ヶ国条約以前に一国家一元首の原則を発見したという所にあるかと。

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