今日のお題:桐原健真「鎖国日本」言説と永久開国論を問い直す。」、日本とアジアの未来を考える委員会『日本とアジアの未来を考える。』2巻、2015年3月、63-77頁
2015年3月とは言いながら、実際には最近手許に届きました。こういう場合、いつの成果になるのかがいつも考えどころではあります。
古典語としての「公論」は、しばしば「天下後世自づから公論有り」のような形で用いられる。ここからは、「公論=公正な議論」は、「天下後世」という広範囲かつ長期的な評価を俟ってはじめて成立するのだという認識が読み取れよう。
しかし、黒船来航以後に活発化する言論や政治的混乱は、「公論」ということばに、「公共空間での議論」という意味を与えていった。こうした「公論」は、やがて「公」を独占する「公儀」と対峙していくこととなる。
尊攘の志士たちは、「尊攘」の「大義」を「衆議」することこそ、「公論」であり、また「正議」であると信じていた。それゆえ、彼らを弾圧する安政の大獄は、この「正議」を否定する「私」であり、その排除は「公」にほかならない――こうした理論武装によって、幕府大老へのテロリズムは実行されたのである。
本発表は、こうした「公論」概念の変容を通して、幕末日本における言論空間の存在形態を検討することを目的とするものである。
クーボール三門、百目玉筒五門、三貫目鉄空弾二十、百目鉄玉百、合薬五貫目貸下げの手段の事。(「前田孫右衛門宛」1858(安政5)年11月06日)
御当家に於ては他藩の誘ふ迄も之れなく、勤王の御志確然たる御事に候へば、此の度〔上京〕の一挙に付き、下より御願申出づるには及ばず、謹んで御指揮待ち然るべき事に御座候へども、私共時事憤慨黙止し難く候間、連名の人数早々上京仕り、間部下総守・内藤豊後守打果し、御当家勤王の魁仕り、天下の諸藩に後れず、江家の義名末代に輝かし候様仕り度く存じ奉り候。此の段御許容を遂げられ下され候様願ひ上げ奉り候。以上。(「周布政之助宛」1858(安政5)年11月06日)
たしかに松陰という人物の生涯は、失敗の連続であり、その功を成したところは少ないと言わざるを得ない。試みに、彼の一生を一文で描き出してみよう。家学としての山鹿流兵学に失望し、代わって西洋兵学や蘭学を志すもほとんど成るところがなく、また仇討ちする友人のために脱藩するも本懐は遂げさせられず、さらに浪人となり諸国遊学に出るも黒船来航により世情は流動化し、その打開のため密航によって海外渡航を試みるも事破れて獄に投じられ、出獄後にやがて松下村塾を主宰して後身を教育するもわずか三年でふたたび投獄され、ついで獄中で策動を図るもことごとく頓挫し、最後に召喚された江戸では生還を期すもついに生きて帰ることはなかった。ことほどかように、松陰の生涯は「蹉跌の歴史」(徳富蘇峰)とならざるを得ない。(拙著『吉田松陰』)