今日のお題:岡安儀之先生より『「公論」の創生「国民」の誕生:福地源一郎と明治ジャーナリズム』(東北大学出版会、2020年)をご恵贈賜る。
岡安儀之先生(東北大日本思想史・助教)より『「公論」の創生「国民」の誕生:福地源一郎と明治ジャーナリズム』(東北大学出版会、2020年)をご恵贈賜る。
岡安儀之著『「公論」の創生「国民」の誕生:福地源一郎と明治ジャーナリズム』
https://www.tups.jp/book/book.php?id=413
長く長く福地源一郎を追いかけてらっしゃってついに一冊の本となったというのが、なんともうれしいところでございます。
まぁ、およそ世の中、福地に対する評価が低いというか、毀誉褒貶でいえば、おおむね毀貶に傾いていると申しますか、およそ事典なりで「福地源一郎」を引いてみましても、
⇒福地桜痴
となって、飛ばされるというのがどうにも多うございます(ex.小学館『日本大百科全書』(ニッポニカ)、講談社『日本人名大辞典』)。
結局の所、大体は桜痴としての福地なのであります。源一郎として、彼がどうであったのかというのは、非常に少ない。
まぁ、オマエは吉田寅次郎くんを生れた時から松陰呼ばわりしてるだろうと言われると、なんとも申せませんが(生れた時は杉寅次郎だったはずだと小声で言ってみる)。
ちなみに、文久年間頃に吉原でなじみになった桜路という芸妓さんにちなんで、桜痴号を用い始めたそうでございます。まぁ、二十代の若気の至りながら、一生それを使い続けたという点は評価してもよいかも知れません。
さて、この本のありがたい所は英文タイトルもついていると言うことでございます。
こちらを拝見しますと、今回のテーマである「公論」は「Public Opinion」とございます。ああ、やはりこうなるんだなぁというのが、改めて想うところ。
本来「公論」ということばは、古典的には、「天下後世自づから公論有り」(朱熹『中庸或問』)のように用いられて参りました。すなわち、ある主張が「公平で公正な議論」であると認められるには、「天下後世」という広範囲で長期的な評価が不可欠なのだということでございます。
かつての「公論」には、こうした現場性から離れた超越性に基づく正当性があったと申せます。
しかしながら、こうした古典的意味とはまったく異なった内容――「Public Opinion」――で、「公論」が爆発的に語られるのが幕末維新という時代であったわけです。かくて「時間超越的で公正な議論」という意味であった「公論」は、「公共空間での議論」という意味をまとうようになり、ときに暴走しつつ、明治日本の言論空間へとなだれ込んでいくのでありますが、他方でやはり「公論」には、尾骶骨のように、超越性というものがまとわりついていたようにも見えます。
それを考えると、『江湖新聞』をはじめとした新聞を通してみずからの Opinion を Publish していった福地の「公論」というのは、新しい「公論」の系譜を立ち上げたものだとも言えるかも知れません。
岡安儀之著『「公論」の創生「国民」の誕生:福地源一郎と明治ジャーナリズム』
https://www.tups.jp/book/book.php?id=413
【目次】
序 論
第一章 「新聞記者」の誕生―福地源一郎の自己認識を中心に
第二章 政論新聞化と福地源一郎―「東京日日新聞」の変容とその影響
第三章 福地源一郎の「国民」形成論―士族平民民権論争を中心に
第四章 福地源一郎における「興論」と「国民」―「華士族」をめぐる論争を題材に
第五章「双福」と自治―明治前期における二つの「国民」像
結 論
長く長く福地源一郎を追いかけてらっしゃってついに一冊の本となったというのが、なんともうれしいところでございます。
まぁ、およそ世の中、福地に対する評価が低いというか、毀誉褒貶でいえば、おおむね毀貶に傾いていると申しますか、およそ事典なりで「福地源一郎」を引いてみましても、
⇒福地桜痴
となって、飛ばされるというのがどうにも多うございます(ex.小学館『日本大百科全書』(ニッポニカ)、講談社『日本人名大辞典』)。
結局の所、大体は桜痴としての福地なのであります。源一郎として、彼がどうであったのかというのは、非常に少ない。
まぁ、オマエは吉田寅次郎くんを生れた時から松陰呼ばわりしてるだろうと言われると、なんとも申せませんが(生れた時は杉寅次郎だったはずだと小声で言ってみる)。
ちなみに、文久年間頃に吉原でなじみになった桜路という芸妓さんにちなんで、桜痴号を用い始めたそうでございます。まぁ、二十代の若気の至りながら、一生それを使い続けたという点は評価してもよいかも知れません。
さて、この本のありがたい所は英文タイトルもついていると言うことでございます。
こちらを拝見しますと、今回のテーマである「公論」は「Public Opinion」とございます。ああ、やはりこうなるんだなぁというのが、改めて想うところ。
本来「公論」ということばは、古典的には、「天下後世自づから公論有り」(朱熹『中庸或問』)のように用いられて参りました。すなわち、ある主張が「公平で公正な議論」であると認められるには、「天下後世」という広範囲で長期的な評価が不可欠なのだということでございます。
かつての「公論」には、こうした現場性から離れた超越性に基づく正当性があったと申せます。
しかしながら、こうした古典的意味とはまったく異なった内容――「Public Opinion」――で、「公論」が爆発的に語られるのが幕末維新という時代であったわけです。かくて「時間超越的で公正な議論」という意味であった「公論」は、「公共空間での議論」という意味をまとうようになり、ときに暴走しつつ、明治日本の言論空間へとなだれ込んでいくのでありますが、他方でやはり「公論」には、尾骶骨のように、超越性というものがまとわりついていたようにも見えます。
それを考えると、『江湖新聞』をはじめとした新聞を通してみずからの Opinion を Publish していった福地の「公論」というのは、新しい「公論」の系譜を立ち上げたものだとも言えるかも知れません。