2013年06月02日 (日)

今日のお題:病の巣

突発性発疹と思われた息子は、さらに風邪を併発していたようで、咳と鼻水が非道いことに。さらに、そこから当方も伝染されて、この10日を棒に振っております。

昨日は、何年かぶりに、「目が回る」という体験をしました。

咳は出るわ、のどは痛いわ、涙は止まらないわでまったく予定が進みません。勘弁してください。

これが、子供の風邪はうつりやすく、治りにくいと言うヤツなのでしょうか。

2013年05月26日 (日)

今日のお題:突発性発疹ふたたび

息子がふたたび突発性発疹となりました。昨年は、6月の末でしたので、ほぼ1年ぶり。3月末に名古屋に来て初めての疾患です。これまでバタバタしていた中、よくもったもんだと、妙な感謝の念を抱く次第。

前回:思海 - 突発性発心
http://www.kinjo-u.ac.jp/kirihara/log/eid825.html

2回目だからといって、親が慌てないという保証はなく、むしろ浮き足だっていると申せます。論文とか、締切とかあるはずなんですが、まるで進みません。

ちなみに突発性発疹に効く薬というものはないそうで、そういうことを聴くと、「嗚嗟、やはり治せないものは治せないんだなぁ」と改めて思い至るのであります。いや、そういう反省というか内省をしている場合じゃないんですが。

2013年05月09日 (木)

今日のお題:移籍にともなうWebサイトの移転について

このたび、13年ほどお世話になりました東北大学を離れて、名古屋の金城学院大学に移籍いたしました。これにともないWebサイトを移転いたしましたのでご案内いたします。どうぞ今後とも宜しくお願い申し上げます。

*あたらしい所属
金城学院大学文学部
日本語日本文化学科
准教授(近代日本文化担当)

[日本語日本文化学科] - 強く、優しく。金城学院大学
http://www.kinjo-u.ac.jp/depart/depart_jpn.html

2013年02月08日 (金)

今日のお題:シンポジウム「関東大震災と近代日本のリーダー:渋沢栄一・後藤新平・吉野作造」

司会をするというか、オーガナイズするというか、いわゆる何でもやるというか。なんにしても、大きなシンポをやりますので、お時間のある方は、どうぞ。

*シンポジウム「関東大震災と近代日本のリーダー:渋沢栄一・後藤新平・吉野作造」

$FILE1_l



今年(2013年)は、1923年(大正12)9月1日の関東大震災からちょうど90年にあたります。そこで、公益財団法人渋沢栄一記念財団研究部では、「関東大震災と近代日本のリーダー」と題してシンポジウムを開催いたします。

本シンポジウムでは、渋沢栄一(1840-1931)をはじめ、東北ゆかりの後藤新平(1857-1929)・吉野作造(1878-1933)といった近代日本の財界・政界・思想界を代表するリーダーたちが、あの大震災といかに対峙し、震災復興へいかに尽力したかを再考します。このことは約2年が経過した東日本大震災からの復興や被災地を含めた日本社会の再生への示唆ともなるでしょう。



日時:2013年3月9日(土) 14:00?17:00(開場13:30)
会場:東北大学川内萩ホール会議室
住所:〒980-8576 仙台市青葉区川内40 ?:022-795-3391
主催:公益財団法人渋沢栄一記念財団研究部
協賛:東北大学日本思想史研究室・日本思想史研究会

     【申込不要・入場無料】

〈パネリスト〉
-「渋沢栄一」…見城悌治(千葉大学准教授)
-「後藤新平」…御厨 貴(放送大学教授、東京大学名誉教授)
-「吉野作造」…大川 真(吉野作造記念館副館長)

〈コメンテーター〉
-五百旗頭 真(熊本県立大学理事長、ひょうご震災記念21世紀研究機構理事長)

〈司会〉
-桐原健真(東北大学助教)

プログラム
14時00分 開会の辞
14時05分 パネリスト発表
15時35分 休憩
15時50分 コメント
16時20分 パネルデイスカッション
16時40分 フロアーとの質疑応答
17時00分 閉会の辞

【交通案内】 仙台駅前9番バスのりばより「宮教大・青葉台行」または「青葉通経由動物公園循環」に乗り、「東北大川内キャンパス・萩ホール前」で下車(約15分)ののち、徒歩3分。タクシーでは仙台駅から約10分、仙台空港から約40分。

【お問合せ】 公益財団法人渋沢栄一記念財団研究部
Tel:03-3910-2314 / Fax:03-3910-2849
E-mail: research-dpt@shibusawa.or.jp

*ポスター
$FILE2

2013年01月10日 (木)

今日のお題:移行準備中

移籍することになったので、移行準備を始めます。

2012年12月17日 (月)

今日のお題:桐原健真「生命と自然:東日本大震災という経験を出発点として」、中華人民共和国・北京市・北京外国語大学日本学研究センター、2012年12月17日

北京日本学研究センターで講演しました。東日本大震災後における日本人の自然観の変化について二宮尊徳の生命観を踏まえつつ論じた次第。多くの方にお越しいただき感謝の至り。

前日まで英語メインの国際学会だったので、日本語だけで意思疎通ができることの有り難さ。まぁそれはそれで危険なのですが。

2012年12月17日 (月)

今日のお題:桐原健真「The West as a Mirror: An Origin of the Ethnocentrism in the Nineteenth Century Japan」“19世紀的東亜与美国:紀念衛三畏誕生200周年”国際学術研討会、2012年12月16日、中華人民共和国・北京市・北京外国語大学

$FILE1_l 北京にお呼ばれして発表を致しました。

桐原健真「The West as a Mirror: An Origin of the Ethnocentrism in the Nineteenth Century Japan」“19世紀的東亜与美国:紀念衛三畏誕生200周年”国際学術研討会、2012年12月16日、中華人民共和国・北京市・北京外国語大学

とりあえず「はじめに」を日本語訳したものを載せておきます。素晴らしく美しい翻訳調の日本語だなぁと感心することしきり。まぁ、原文もこんな感じでカクカクしているのですが。


*1.「帝国日本」の誕生を目撃した最初の西洋人
1854年3月3日、神奈川条約が調印された。この条約の結果、徳川幕府の鎖国政策は終焉を迎える。これ以降、幕府は同様の条約をイギリス・ロシアなどと結ぶのである。

神奈川条約は、次のように始まっている。

The United States of America, and the Empire of Japan, desiring to establish firm, lasting and sincere friendship between the two Nations….(亜墨利加合衆国と帝国日本両国の人民、誠実不朽の親睦を取結ひ…)

21世紀に生きる人間であれば、この一文における表現を奇異に思うものはいないだろう。しかしこれはエポックメイキングな一文であった。なぜならば、これはみずからが帝国(Empire)であることを国内外に対して、日本政府が公式に認めた宣言だからである。この調印式に列席した一人の通訳官、S. W. Williams (1812-1884) は、まさに帝国日本 the Empire of Japan の出生届を目撃した最初の西洋人であった。

神奈川条約には、日本語・英語・オランダ語、そして漢文 the classical Chinese で記された4種類のバージョンが存在する。しかし、我々は漢文版に帝国ないしはEmpireに相当することばを見つけることは出来ない。すなわち、この一文は次のように記されているのである。「ここに、アメリカ合衆国は、人々が互いに親睦を深めることを日本国と協議した(現今亜美理駕合衆国謀与日本国人交相親睦…)」このバージョンが他のものと異なっている理由は、「帝国」という表現が、漢文において正統なことばではなく、日本の蘭学者 Japanese Dutch Scholar によって造られた新しいことばだったからである。このような新語は近代漢語 Modern Chinese Expression と呼ばれている。

ウィリアムズは、文法が違うものの、ともに漢字 Chinese characters を用いる漢文版と日本語版との齟齬を見つけることの出来る唯一の西洋人であった。と、いうのも彼は中国語のみならず日本語も理解出来たからである。言うまでもなく、周知のように彼は日本語を話すことが出来たが、読み書きは十分に出来なかった。しかしながら彼はこの「帝国」という奇妙なことばに気付くことが出来たはずである。なぜなら彼は漢字を理解できたのであるから。

残念ながら、私はウィリアムズがこのことばを発見し、そして何からの言及をしたかどうかについて語ることが出来ない。だが、わたしはこの正統な漢語ではない「帝国」という用語が、神奈川条約以後における数多くの外交文書において当然のように用いられていることを指摘することが出来る。徳川時代後期の政治家や知識人は、この「帝国」という新奇な用語が、たんなる「Empire」という英単語の訳語ではなく、みずからの国の堂々たる称号であると思っていた。この論文の目的は、ウィリアムズが注意を払わなかったこの用語が、日本知識人によっていかに造られ、また認識されたのかを明らかにすることである。本稿は、いわば19世紀日本における「言説」としての「帝国」の研究である。


ちなみに中国語でのタイトルも付けてもらってました。

以西為鏡:十九世紀日本民族中心主義的源頭

だそうです。「為」といわれるとちょっと主体的すぎるわけで、どちらかというと、「図らずも鏡だった」というニュアンスを出すために、

鏡様的西洋:十九世紀日本民族中心主義的源頭

あたりにしていただけると、これ幸い。

$FILE2
正面はプロジェクタのスクリーンで見えなくなるので、会場の後ろに横断幕を貼るという知恵。考えたなぁ。

$FILE3
門を入ったところにある電光掲示板に「熱烈歓迎 19世紀的東亜与美国:紀念衛三畏誕生200周年”国際学術研討会」の文字が。いやぁ、熱烈歓迎されちゃったなあと照れたり照れなかったり。当方が参加している以外にも2つほど大きな会議があった模様。

2012年11月28日 (水)

今日のお題:桐原健真「弘道館祭神論争:会沢正志斎の神道思想」(日本思想史学会2012年度大会、松山市・愛媛大学、2012年10月28日)

*はじめに
水戸藩の藩校である弘道館は一八四一年に、当時の藩主である徳川斉昭(一八〇〇?一八六〇)によって創建された。神儒一致を標榜するこの学舎には、孔子とともにタケミカヅチすなわち鹿島神が祀られており、その奉斎意図については、「弘道館記」(一八三八)やその解説書である会沢正志斎の『退食間話』(一八四二)さらには藤田東湖の『弘道館記述義』(一八四七)に見ることができる(ただし実際に勧請されたのは一八五七年)。しかし、これらの祭神の選定作業の道程は必ずしも平坦なものではなかった。というのも斉昭は、天祖や天皇神(以下「天皇神」とのみ記す)の奉斎を強く希望しており、その主張は「弘道館記」の撰述直前まで続いたのである。この事について「弘道館記」の草稿を脱稿した直後の東湖は、みずからの師である会沢に次のような愚痴めいた書簡を書き送っている。
最初御議論申上候節、九五〔斉昭〕の御主意は兎角天祖神武を御祀りの御主意に而、村松又は湊の柏原明神等に御気之れ有り候ゆへ、非礼之段申上、兼々貴説に而承知仕居候通り段々順々に天祖神武帝にも通じ候意味申上、是はとうとう十分に御呑込に罷成候。(藤田東湖「会沢伯民に与へし書」1837(天保8年)9月28日、水戸市教育会編纂『東湖先生之半面』(1909年)国書刊行会復刻、1998年、99頁、原片仮名。)

伊勢の分霊である村松神社(現茨城県東海村鎮座)や桓武天皇と崇道天皇(早良親王)を祀る柏原明神(同ひたちなか市)といった領内鎮座の天皇神を勧請することを斉昭は希望した。そこには皇祖皇宗を祀る自身の権威化によって、徳川将軍を相対化する意図があったことは否めない。しかし、こうした藩主の意見は通らなかったのである。
「弘道館記」の撰述にあたり、会沢や青山延于のほかに佐藤一斎にも意見を徴した際、鹿島神奉斎について斉昭は次のように裁定している。
学校に神を祭るの意、実は天下人民をして天祖の鴻恩を仰がしむるの意なり。されども大名の国にて往々私に天祖を祀るやうになりては、却てよろしからざるゆへ、開国の功臣にて常陸に霊を留めたる神〔鹿島神〕を祀らんと思ふなり。(徳川斉昭「青山延于宛」1834(天保5)年12月18日、『水戸藩史料・4』吉川弘文館、1915年、283頁。)

斉昭は、あたかも鹿島神奉斎が自身の初志であったかのように記しているが、彼が天皇神の奉斎を諦めたのは東湖らの説得の賜物でもあったろう(なお一斎も、天照大神の奉斎に異を唱えていた〈中村安宏「佐藤一斎と後期水戸学:『弘道館記』の成立過程」、『日本思想史学』27号、1995年参照〉)。しかし、会沢・東湖そして延于といった後期水戸学の主立った人々は、天皇神奉斎への反対については一致していたが、これに代わって奉斎すべき神の具体的内容については一致していなかった。こうした中で、終始一貫して鹿島神と孔子を奉斎すべきであると主張していたのが会沢正志斎であった。本発表ではこの祭神論争における会沢の鹿島神奉斎論を通して、東藩水府の学として構成された会沢独自の神道思想について概観することを目的とする。それは、しばしば無前提に明治維新や近代天皇制国家のイデオロギー的源泉とされてしまう後期水戸学を、常陸国という地域的固有性を背景に成立したイデオロギーとして再構成する試みであり、後期水戸学を近世後期という思想空間の中に読み解くことに資するものとなろう。

2012年09月09日 (日)

今日のお題:桐原健真「連続と断絶―服部之総の「親鸞」」、パネルセッション「戦後の日本仏教論―諸学説の再検討―」、日本宗教学会第71回学術大会(伊勢市・皇學館大学)、2012年09月09日

日本宗教学会でパネルセッションをしてきました。戦後歴史学における「農民」像の根深さがちょっと分かってきましたよ。あと、服部之総を誰もやりたがらない理由も。

*パネル戦後の日本仏教論―諸学説の再検討― 代表者: オリオン・クラウタウ

タイトル氏名所属
戦後日本仏教学説の課題オリオン・クラウタウ龍大
連続と断絶―服部之総の「親鸞」―桐原健真東北大
圭室諦成著『葬式仏教』再考ライアン・ワルド明大
戦後日本仏教と民俗学―五来重の場合―碧海寿広宗教情報リサーチセンター
コメンテータ佐藤弘夫東北大
司会オリオン・クラウタウ龍大

2012年08月04日 (土)

今日のお題:桐原健真「あの世」はどこへ行ったか?近代日本における死生の行方、仙台放送「テレビで学べるスマート・エイジング教室」2012年08月04日

5月に東北大学のスマート・エイジング国際共同研究センターでやった内容を20分くらいにまとめたものが放送されました。土曜の朝五時半という恐ろしい時間ですが。むしろ29時30分と言った方が幸せは多いかも知れません。

*仙台放送/テレビで学べるスマート・エイジング教室|講義内容
http://www.ox-tv.co.jp/SA/lecture_05.shtml

お迎え現象のところを中心に取り上げられており、当方の専門である思想史の分野はほぼ取り扱われていないのがなんとも。こういうのを人のフンドシで相撲を取るというのだなぁと思った次第。

*東北在宅ホスピスケア研究会『在宅ホスピスご遺族アンケート報告書(2007年6月実施)』東北大学臨床死生学研究会(2007年度東北大学若手研究者萌芽研究育成プログラム)、2008年
http://www.sal.tohoku.ac.jp/rinshiken/data/upfile/6-1.pdf

<< 12/32 >>