2015年09月06日 (日)

今日のお題:桐原健真「近世から近代へ:金次郎の自然観と現代」(小田原市・生涯学習センターけやきホール、二宮金次郎生誕地記念講演会開催実行委員会、2015年09月06日)

二宮金次郎没後160周年記念ということで、講演会にお呼ばれしました。

金次郎の教え活かす | 小田原 | タウンニュース
http://www.townnews.co.jp/0607/2015/09/05/298321.html

に登壇者が

東北大学大学院名誉教授大藤修氏
金城学院大学准教授桐原健真氏
二宮総本家当主二宮康裕氏

と、記載されておりますが、まぁ、この2番目の人の違和感たるや尋常ではございません。何しろ、人物叢書の執筆者と総本家当主で金次郎の分厚い本を出されてる方とならんでるわけですから。まぁ、全員、東北大つながりではあるんですが。

とは言え、できうる限りのことはやりました。

とりあえず、専論ではなく、金次郎論のコミュニティから外れて話をして欲しいということでしたので、もう完全に当方の独擅場でございます。恐竜が滅亡したり、ど根性大根が出て来たりと自由自在でございます。

基本的には、「自然と決定的に対立する近代的な労働主体の思想をいち早く手に入れた金次郎」という定式に対しては、否を提示できたので、それはそれで宜しかったんではないかと。

で、一応、要旨です。
近世末に確立した金次郎の思想は、「報徳思想」というかたちで近代へと承け継がれた。儒学をはじめとした近世期の諸思想が、明治以降において、急激にその力を失っていったことを考えたとき、その独自性は明らかであろう。

しかしながら、福住正兄によってなされた一連の出版事業に対して、その弟子たちによって批判が加えられたという事実が象徴するように、金次郎の思想の全体像については、その後継者(を自認するひとびと)のあいだにおいても、必ずしも一致するものではなかった。こうした金次郎における思想の正当性をめぐる論争には、農業をはじめとした諸産業に立脚した日本社会を、いかに近代化するかという問題に対するおのおのの立場が現れていると言えよう。

本発表では、近代日本が金次郎の思想をいかに理解しようとしたかを論じ、かつ21世紀の今日において、どのように継承していくことができるのかについて検討していきたい。

2015年09月05日 (土)

今日のお題:日本宗教学会大会(八王子・創価大学)

日本宗教学会大会のために、八王子は創価大学に行って参りました。

今回は、完全な物見遊山でありながら、ほかにいくつかの仕事の打合せなんかしてきましたですよ。学会はとても良い機会なんだねぇ。

とくに大した写真がありませんが、撮ってみた数少ないもののなかから厳選した一枚をお届け。というか、ほかは光量が足りなくておよそ写ってなかったりでしたよ。

2015年09月05日:池田記念講堂.jpg

で、なぜ池田記念講堂なのかと申しますと、最初、友人と連れだって懇親会会場に行こうと思ったらなぜかここに着いてしまって、
「ここかなぁ」
「大きいですね」
「こんな大きな所でやるんだ、すごいねぇ」
「どうにも、びっくりですね」
「……いや、ちがうだろ、絶対」

という、間抜けな会話をしつつ、結局道路挟んで対面の建屋であったことを発見。会場が開くまで、しばし広場で待ちつつ、近況を話し合ったりしてましたよ。なんて学会らしい一コマ。

2015年08月27日 (木)

今日のお題:Jcode.pm を求めて

こまったことに、このブログのcgiが動かなくなりました。
Fail to initializeCan't locate Jcode.pm in @INC (@INC contains: . ./lib ./ext /usr/local/lib64/perl5 /usr/local/share/perl5 /usr/lib64/perl5/vendor_perl /usr/share/perl5/vendor_perl /usr/lib64/perl5 /usr/share/perl5) at (eval 9) line 1.
at lib/sb.pm line 77
at lib/sb.pm line 77

なんて出て参ります。

どうも、よくよく調べてみますと、というか、直感的に、このサーバにJcode.pmがないことに気づかされます。

あ、そういや、このまえサーバが新しくなったんだ。う〜ん、入れてもらうべきかなぁと思ったのですが、こちら

dopvFAQ:無理矢理 Jcode.pm 対応方法(無保証)
http://tech.bayashi.net/faq/jcodepm.html

を拝見して、いそいそと/lib/にJcode.pmを突っ込んだところ、あっという間に直りました。まことにもって、少しのことにも、先達はあらまほしき事なり。

2015年07月11日 (土)

今日のお題:桐原健真「日本近代の死生観:「お迎え」は来るのか?」NPO法人想像文化研究組織カレッジICI、神戸市・甲南大学、2015年7月11日

もはや十八番になってきた感じのするお話しではございますが、行く先々のお客様次第で受け止め方が違うのが何とも面白いところでございます。

で、今回は、横断幕を作って戴いて、それがこれです。

カレッジICI 001.jpg

なんと申しますか。明らかに、怪しい壺か黄色の財布でも売りつけそうな感じでございます。

ということで、初っぱなにこんな事をもうしました。
「お迎えは来るのか?」などと何とも怪しいことを書いてございますが、そもそも学者先生が、「お迎えは来るのか?」なんて疑問形で話をするときは、否定するために言うわけでございまして、オチとしては、「来ない」ということになるのが一般的でございます。
で、今日のお話もそういうものなのかと申しますと、実は「来るんだ」というのがオチでございます。

結局、来るんじゃないか〜。

2015年07月06日 (月)

今日のお題:風邪

久方ぶりに本格的な風邪を引いております。なんとかしかひかない夏のかんとかというヤツでございますが、先週末には38度6分という、インフルエンザ以来の高熱を発していた次第。

毎度の事ながら方々にご迷惑をおかけしておりまして、申し訳ございません。

2015年06月28日 (日)

今日のお題:桐原健真「鎖国日本」言説と永久開国論を問い直す。」、日本とアジアの未来を考える委員会『日本とアジアの未来を考える。』2巻、2015年3月、63-77頁

2015年3月とは言いながら、実際には最近手許に届きました。こういう場合、いつの成果になるのかがいつも考えどころではあります。

2015年06月20日 (土)

今日のお題:桐原健真「近世日本における「公論」観念の変容」(名古屋市・愛知学院大学楠元キャンパス、東海日本思想史研究会、2015年06月20日)

実は、東海日本思想史研究会というのが、今年の3月8日にこっそりと始まっていたのです。で、今日がその第二回目で、当方が発表するというお話し。

ちなみに予告要旨は以下の通り。

古典語としての「公論」は、しばしば「天下後世自づから公論有り」のような形で用いられる。ここからは、「公論=公正な議論」は、「天下後世」という広範囲かつ長期的な評価を俟ってはじめて成立するのだという認識が読み取れよう。

しかし、黒船来航以後に活発化する言論や政治的混乱は、「公論」ということばに、「公共空間での議論」という意味を与えていった。こうした「公論」は、やがて「公」を独占する「公儀」と対峙していくこととなる。

尊攘の志士たちは、「尊攘」の「大義」を「衆議」することこそ、「公論」であり、また「正議」であると信じていた。それゆえ、彼らを弾圧する安政の大獄は、この「正議」を否定する「私」であり、その排除は「公」にほかならない――こうした理論武装によって、幕府大老へのテロリズムは実行されたのである。

本発表は、こうした「公論」概念の変容を通して、幕末日本における言論空間の存在形態を検討することを目的とするものである。


「幕末」って言ってるんだから、タイトルの「近世日本」ってのは羊頭狗肉はないのかと思ったりしますが、「変容」がテーマだということでご寛恕賜りたいところでございます。

で、本論ですが、「公儀・公方」から奪った「公」が、結局「皇」に収斂しちゃうんだったら、元の木阿弥じゃないのかというご意見を頂戴し、嗚嗟、確かにそうだなぁと痛感しながらも、もはや「公」の独占が与件ではなくなるというのが、明治というものなんではないのかなぁと思ったり。

で、すっかりと五ヶ条の御誓文を忘れていまして、結局、明治国家も、「公論」というか、「公論する」ことの価値自体は否定しなかったんだよね、というサジェスチョンを頂戴し、オノレの不明を身に染みて感じた次第。

2015年06月04日 (木)

今日のお題:桐原健真「吉田松陰の視点―攘夷とは何か―」(間部詮勝シンポジウム、鯖江市・鯖江市文化の館多目的ホール、2015年05月23日〜2015年05月24日)

福井県鯖江市の間部詮勝シンポジウムに登壇して参りました。

福井県鯖江市>間部詮勝シンポジウム
http://www.city.sabae.fukui.jp/pageview.html?id=16275

間部詮勝の暗殺計画を立てた人間についてやってる当方を、よくもまぁお呼び下さったということで、恐縮の至り。

とはもうせ、実際に暗殺された井伊直弼とはちがって、未遂も未遂、計画を立てただけですので、まだ良いのかも知れません。

でも、あの人、
クーボール三門、百目玉筒五門、三貫目鉄空弾二十、百目鉄玉百、合薬五貫目貸下げの手段の事。
(「前田孫右衛門宛」1858(安政5)年11月06日)

なんて言っておりますんで、もはやこれは暗殺とかいう以前の武装蜂起と言っても宜しいかと。

そもそも薩摩の島津斉彬が、2,000人だか3,000人で卒兵上京しようとか言っていたのに比べると、随分と可愛い規模ではありますが、これが瀬戸内周りか日本海周りか分かりませんが、往き往きて進軍していたら、それはそれで面白かったかと。

どうも、松陰の所には、薩摩藩の上洛計画やら、伊井大老暗殺やら虚実入り交じった情報が来ていたようでして、彼自身、この流れに乗り遅れてはいけないと思っていたようでございます
御当家に於ては他藩の誘ふ迄も之れなく、勤王の御志確然たる御事に候へば、此の度〔上京〕の一挙に付き、下より御願申出づるには及ばず、謹んで御指揮待ち然るべき事に御座候へども、私共時事憤慨黙止し難く候間、連名の人数早々上京仕り、間部下総守・内藤豊後守打果し、御当家勤王の魁仕り、天下の諸藩に後れず、江家の義名末代に輝かし候様仕り度く存じ奉り候。此の段御許容を遂げられ下され候様願ひ上げ奉り候。以上。
(「周布政之助宛」1858(安政5)年11月06日)

「鶏口となるも牛後となるなかれ」という矜持なんでしょうか、ある種のセクト主義とも申せます。

などと書いては見ましたが、実際の発表ではそんなことはまったくお話ししておりませんで、そもそも求められたお題が「攘夷概念についての考察」なわけでして、これまたなかなか抽象度の高いお話しでございます。

とはいえ、鯖江にまで行きながら、間部の話がまるで出てこないとなると、少々申し訳ないので、一寸だけ話をしましたですよ。

とりあえず、改めて考えてみると「尊王攘夷」って変なことばだなぁということをお話しいたしました。そもそも「尊王攘夷」って、主語を考えると文法的に問題があるんじゃないかと。「尊王」は臣下の必須行為であるにしても、「攘夷」というのは明らかに主君の専権事項なわけで、臣下一般が手を出すべきことではないのです。「尊王」という道徳的信条が、「攘夷」という軍事的主張と結び付いたとき、政治的運動に転化していくというのが、「尊王攘夷」ということばの不思議というか大跳躍なところなのでございます。

2015年06月04日 (木)

今日のお題:桐原健真「吉田松陰の実像―「垣」を越える―」(広島市・広島県立総合体育館中会議室、ひろしま日本史を学ぶ会、2015年05月16日)

今回は「ひろしま日本史を学ぶ会」さんのお招きで一席打ってきた次第。

当方、広島は初上陸でございまして、ちょうど会場の対面が原爆ドームだったので、お決まりのように写真に収めたですよ。

原爆ドーム

さて、肝心の中身ですが、松陰の「実像」とまで銘打ってしまったからには、実像を描かなければならないわけでして、はたして、あの男の実像ってどんなもんだろうと考えて見たわけでございます。で、書いてみると、こんな感じです。
たしかに松陰という人物の生涯は、失敗の連続であり、その功を成したところは少ないと言わざるを得ない。試みに、彼の一生を一文で描き出してみよう。家学としての山鹿流兵学に失望し、代わって西洋兵学や蘭学を志すもほとんど成るところがなく、また仇討ちする友人のために脱藩するも本懐は遂げさせられず、さらに浪人となり諸国遊学に出るも黒船来航により世情は流動化し、その打開のため密航によって海外渡航を試みるも事破れて獄に投じられ、出獄後にやがて松下村塾を主宰して後身を教育するもわずか三年でふたたび投獄され、ついで獄中で策動を図るもことごとく頓挫し、最後に召喚された江戸では生還を期すもついに生きて帰ることはなかった。ことほどかように、松陰の生涯は「蹉跌の歴史」(徳富蘇峰)とならざるを得ない。(拙著『吉田松陰』)

……なんとも紆余曲折と申しますか、あの短い一生でここまでやったもんだと感嘆してもよろしいかと。

こういう紆余曲折を通して、あの「癸丑(1853)以前」に、自らに対峙する西洋に抵抗する自己を発見するという自他認識の転回を経たのであり、松陰の先駆性というのは、黒船以前に防衛する対象として日本を発見し、五ヶ国条約以前に一国家一元首の原則を発見したという所にあるかと。

2015年05月11日 (月)

今日のお題:桐原健真「渋沢栄一と近代論語の世界」(足柄上郡開成町・開成町福祉会館、東アジア文化交渉学会第7回年次大会、2015年05月09日)

渋沢栄一における儒学思想、とりわけその『論語』の理解について議論される際、しばしば二松学舎から刊行された『論語講義』(全2巻、1925年)が用いられてきた。しかし近年では、同書が実際には筆述者である二松学舎教授の尾立維考による意図的な編集が加えられた、いわば編者自身の著述に近いものであることが、笹倉一広氏の書誌学的検討から指摘されている。この点で、『論語講義』をもって渋沢思想を語ることが、学問的にきわめて危険であることは明かであろう。しかし、『論語』全編を講釈する『論語講義』が、実業家として知られる渋沢の著作として世に問われたことは、これ以降の日本社会における『論語』への認識を大きく規定するものともなったと考えられる。本発表は、同時代の非アカデミズムの分野における『論語』言説を概観することを通して、『論語講義』の文化史的意味を問うことを目的とするものである。
困ったことに、またもや風邪引きでの参加でございます。かなり聞き取りにくい声であったかと申し訳なく存じます。

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