2015年03月28日 (土)

今日のお題:桐原健真「地球規模化する世界を読む:吉田松陰を手がかりに」(泉大津市・生福寺、NPO法人泉州てらこや、2015年03月28日)

浄土宗・生福寺(大阪府泉大津市)の石原成昭住職の主宰されるNPO法人「泉州てらこや」のお招きで、一席打って参りました。毎度のことながら、時間内におさめる努力ができておりませんで申し訳ない限りでございます。

今回は、最近考えている、「松陰三戸」のお話しでございます。「三戸」と言いますと、思い起こされるのが『東北遊日記』の三戸訪問の記録でございます。
九日  晴、風甚だ烈し。未後陰翳、時に過雨あり。駅を発す。浅水坂を越えて浅水駅に出で、始めて麦芽の寸許なるを見る。古町に至れば岐あり、以て八戸に赴くべし。ここを去ること四里半、道の東に四方嶽あり、以て八戸領と界す。野辺地・七戸以来遠望せし所なり。三戸に至る、戸数は五戸に比して更に多し。土人云はく、「地着の士百名、同心四十名」と。駅傍に古城址あり。二百年前、盛岡侯ここに都せしと云ふ。(『東北遊日記』1852年03月09日条)

……ごめんなさい。まったく違います。「三戸」は「さんのへ」ではなく、「さんと」と読んでいただきたいところ。

つまり、松陰が遊学した三つの地である

(1850年)
(1851年)
(1851〜52年)

の三戸でございます。この三戸を経て松陰の思想と申しますか世界観が大きく変わっていったのですよ〜というお話しでございます。しかし、まったく泉大津とは関係のない内容で、非常に申し訳ないとも申せます。

まだ、お隣の堺出身の河口慧海のお話しでもした方が良かったのかしらとも思わなくもないのですが、慧海の話を聞きたい方を探す方が大変なので、それはまたの機会に。

本堂をお借りしてのお話しで、檀家さんをはじめ市民の方々にご来駕いただき、御礼申し上げます。実に背汗の至りなご質問も頂戴しましたし、まだまだ精進が足りないかと思い至った次第。

2015年02月18日 (水)

今日のお題:桐原健真「大局を見通し、日本を守る…全国周遊から得たもの」、『歴史街道』2015年03月号、2015年、86〜91頁

なんで松陰はこんなに有名になれたのかなぁということを、久しく考えております。

正直な話、象山やら小楠やらに比べると松陰の思想家としての深みというのは、ややもの足りないと申さざるを得ません。まぁ、30歳で無くなってますんでそこは無い物ねだりとも申せます。
佐久間象山「省諐録」1854年
予年二十以後は、乃ち匹夫の一国に繋るあるを知る。三十以後は、乃ち天下に繋るあるを知る。四十以後は、乃ち五世界に繋るあるを知る。

という域に達するには、やはり40は越えないといけないのですな。と、先日、ついに40になった男が言いますよ。

で、話を元に戻しますと、松陰が有名になった理由についての単純な答えとしては、

「弟子が偉くなった」

ということが考えられます。

で、この路線で、松陰の教育者としての資質であるとかが説かれたりするわけですが、さて、果たしてそうなのかなぁと思ったりもします。

それよりも、国内外の情勢を体系化して把握して見せたというのが、大きいのではないかと考えています。つまり、「帝国日本」という西洋諸国にすら承認された自己認識を徹底的に考え抜いた結果、日本の元首は他ならぬ皇帝としての天皇であることに行き着き、この原則をもって、日本の独立(攘夷)と同時に政令一途(尊王)という二つの位相の異なるイデオロギーを、1850年代において結合させることができたというのが、松陰思想の特筆すべき点なんだろうと思う次第。

国内主権と対外主権は唯一者において統一されなければならないという思考は、1860年代には一般化するわけでして、
「薩土盟約」1867年
方今皇国の務め、国体・制度を糺正し、万国に臨て恥ぢず、是れ第一義とす。其の要、王政復古、宇内の形勢を参酌し、天下後世に到て猶を其の遺憾なきの大条理を以て処せん。国に二帝なく家に二主なし。政権一君に帰す、是れ其の大条理。我が皇家、綿々一系、万古不易、然るに古郡県の政変じて、今封建の世(カ)と為る、大政遂に幕府に帰す。上皇帝在るを知らず。是れを地球上に考するに、其の国体・制度、茲くの如き者あらん歟。然らば則ち、制度一新、政権朝に帰し、諸侯会議・人民共和、後ち庶幾以て万国に臨て恥ぢず。是こを以て初て我が皇国の国体、特立するものと云ふべし。

なんてのは、一つの終着点なのかなぁと。しかし、「大政委任なんてのは、世界に恥じたる政体である」なんてのは面白いですな。

2015年02月16日 (月)

今日のお題:『河北新報』の「新書選書」で河野有理先生に拙著をご紹介戴きました

『河北新報』(2015年02月16日朝刊)の「新書選書」で、河野有理先生に、拙著をご紹介戴きました。

というか、『南日本新聞』にも2月1日に同じ記事が載ったようですが、こういうのは、地方紙によくある共同通信による配信記事なんでしょうな。

とはいえ、東北の雄である『河北新報』に掲載されたことは、なんとも感慨無量と申しますか、故郷に錦を飾った感が無いわけでもなく、まことにうれしい限りです。

しかし、フーテンの寅さんから吉田寅次郎に飛ぶ筆法は、見習いたいところでございます。なんか夢想したことはありましたが、なるほどそういうシークエンスなのねって感じです。

2015年02月15日 (日)

今日のお題:『朝日新聞』新書紹介覧で拙著をご紹介戴きました

2015年02月15日付の『朝日新聞』で、拙著をご紹介いただきました。

吉田松陰 「日本」を発見した思想家 - 著者 桐原健真 | BOOK.asahi.com:朝日新聞社の書評サイト
http://book.asahi.com/book/9784480068071.html

曰く、
当初、長州藩にとどまっていた松陰の視点が、「西洋」を意識し水戸学者と交流する中で、「日本」へと転じる。やがて日本の「国体」を堅持しつつ「五大洲公共の道」という普遍に開くことにたどりつく。彼の「雄略」という志向が、侵略主義というよりは日本の独立性確保と通商活動を目指したものであることも明らかにする。

とまぁ、まことに要領よくまとめて戴き、なんとも感謝の念に堪えません。そうか、あの本はそういう本だったのか>オイ

2015年02月08日 (日)

今日のお題:『毎日新聞』の「今週の本棚」で、磯田道史先生に拙著をご紹介戴きました

『毎日新聞』の「今週の本棚」で、磯田道史に拙著をご紹介戴きました。

今週の本棚:磯田道史・評 『吉田松陰−「日本」を発見した思想家』=桐原健真・著 − 毎日新聞(2015年02月08日)
http://mainichi.jp/graph/2015/02/08/20150208ddm015070003000c/001.html

なんでも、「松陰の「思想遍歴」を追って論じた思想史の本であり、この本を読めば、松陰が、どのようにして松陰になったのかがわかる」そうで、なんとも過分のお言葉をたまわり、まことに難有い限りでございます。

2015年01月29日 (木)

今日のお題:桐原健真「「公論」はどこへ行ったか?:幕末日本における言論空間の所在」、『環』60号、2015年、218〜224頁

『環』60号
『環』60号、藤原書店
幕末維新における「公」の位相を論じてみました。

本来「公」が有していた超越性が失われることによって、近世後期には言論空間の拡大がもたらされました。しかし一方で、それは「公論」の暴走をも導いたのであり、その過激な表現の一つが、桜田門外ノ変であったわけです。

大老暗殺という前代未聞の政治的暴力を敢行した浪士たちは、次のように、自分たちの行為を自己正当化しております。

大老井伊掃部頭(かもんのかみ)所業を洞察致し候に、将軍家御幼少の御砌(おんみぎり)に乗じ、自己の権威を振はん為公論正議を忌み憚り候て、天朝・公辺の御為筋を深く存じ込み候御方々、御親藩を始め、公卿衆・大小名・御旗本に限らず讒誣(ざんぶ)致し、或は退隠、或は禁錮等仰せ付られ候様取り計らい候

ここには井伊大老の罪状がこれでもかとばかりに列挙されております。

そして、これらの罪は、すべて自分自身の権力を維持するために、尊攘志士たちによる「公論・正議」を忌み嫌ったところに起因しているのだと、斬奸状はその正当性を主張するわけです。

梅田雲浜や吉田松陰をはじめとする多くの犠牲者を出した安政の大獄が、志士たちにとっては許し難い暴挙であったことは確かです。

彼らは、「尊攘」の「大義」を「衆議」することは、「公論」であり、また「正議」であると信じておりました。だからこそ、この「正議」を否定する井伊は、自己の権力欲に駆られた「私」であり、その排除は「公」にほかならない――というわけあります。

こういうのを「理論武装」と申しますが、結局は「公論」の暴走とでも言うべき事態であったと申せましょう。

この原稿では、「公」を独占する「公儀」から、「公論」の意味変容を通して、これを奪取し、ついに暴走に至る過程、そしてときに暴走することもあった「公」が、結局は新しい「公権力」としての「皇」に回収されていきながらも、他方で自由民権運動のような草の根的運動に引き継がれていったことを指摘しております。

ちょっと民権運動に夢を見過ぎな気もしますが、公論言説の文脈としては間違ってはいないかと。


2015年01月20日 (火)

今日のお題:『毎日新聞』の「余録」で拙著をご紹介いただきました

今日(2015年01月20日)の『毎日新聞』朝刊の「余録」拙著をご紹介いただきました。新聞の一面に、自分の名前が出る日が来るとは思いませんでした。なんとも日々感謝の心でございます。

余録:NHK大河ドラマに描かれる幕末の思想家… - 毎日新聞
http://mainichi.jp/opinion/news/20150120k0000m070140000c.html

なんともうしますか、あの新聞一段の世界に文章を徹底的に縮めるというのは、すごい技術だなぁと、改めて思った次第。

2014年12月13日 (土)

今日のお題:桐原健真『吉田松陰:「日本」を発見した思想家』ちくま新書、2014年12月08日、256頁

桐原健真『吉田松陰:「日本」を発見した思想家』ちくま新書、2014年12月08日、256頁いろいろご迷惑をお掛けしながら出すことのできた初の新書でございます。

で、惹句にはこんな感じで書いてあります。


思想家・松陰の知られざる実像
2015年大河ドラマに登場する吉田松陰。維新の精神的支柱でありながら、これまで紹介されてこなかった思想家としての側面に初めて迫る、画期的入門書。


来年の大河ドラマが、松陰の妹が主人公なんだそうでありまして、その流れで松陰もピックアップということになった次第。

「画期的入門書」というのが妥当であるかどうかは別としまして、松陰に対する「過激な尊攘思想家」というレッテルを見直していただくきっかけになっていただければ幸いでございます。

筑摩書房 吉田松陰 ─「日本」を発見した思想家 /
http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480068071/

2014年11月01日 (土)

今日のお題:桐原健真「渋沢栄一の選択:論語の時代的意味」、「二松学舎と渋沢栄一」研究会、千代田区・日本工業倶楽部、2014年10月31日

渋沢栄一記念財団と二松学舎大学の連携研究会でございます「二松学舎と渋沢栄一」研究会での発表。まぁ、研究会の名前からして、その通りなのですが

で、会場の日本工業倶楽部でございますが、これが東京駅を出て直ぐというなかなかの立地でございまして、かつ建屋の荘厳なことこの上なく、それだけでも発表した甲斐があったというもの。

日本工業倶楽部
日本工業倶楽部 - Wikipediaより

で、肝心のお話しですが、渋沢栄一にとって論語ってなんだったんだろうねということは、やはり『論語講義』では分からないという確認をした上で、なんで論語があの時期に非アカデミズムの次元で言説化されるのかということについて考えてみた次第。

修養論でも教養論でもない形で、渋沢が論語(「で」が大事)語ったところが、その後の論語をめぐる言説の方向性を大きく規定したんだろうということをお話ししてみました。

探してみると、結構、この頃の論語言説って面白いものがありまして、

贄田江東『我輩は孔子である:孔子の東京見物』明誠館、1914年

なんてのは、わりと有名どころかもしれません。文学的評価は知りませんが、言説論的に見たとき大変に面白いのは確かですな。

2014年09月27日 (土)

今日のお題:単行本における共著とはなにか?

毎年この時期になりますと、業績書などを書かないといけませんで、当方のような忘れっぽい人間には、少々難儀なことでございます。そういやこんなの書いたよねぇ、というのをこのwebサイトで知るわけですから、よほどなものであります。

で、いつも思うのは、「共著」の取り扱いであります。

人文系で論文の共著というのは、ないわけでもないのですが、あまりないのでそれはいいのです(なんだこの日本語)。問題は、単行本の場合でございます。

当方の感覚では、単行本の共著者であると名乗れるのは、自分が企画したか、編著者である場合だと考えていたのですが、世間的には論文集の一本を書いたり、あるいは記事を二つ三つ書いた場合でも共著と名乗られている方もおられるようで。

やはりそちらの方が一般的なのかしらと思い、自分の業績の書き方を見直そうかと思ったのですが――そうすると著書に書けるものが多くなるので、嬉しいのです――ちょっと調べたら、やはり適当では無いようで、一瞬で企画が終了いたしました
研究業績書の記載方法
(2) 上記(1)の2〜5では、書名、総頁数、刊行年月、発行箇所を明記する。共著・共編・共訳等の場合は、書名のあとにその旨を明記し、あわせて共著者名等を列記する(記入例を参照)。
※ここでの共著・共編・共訳等とは、表紙・奥付に氏名が明記されている業績に限る。たとえば、奥付の付近におかれた「執筆者紹介」等での氏名記載は、奥付に明記された氏名とは見なされない
※複数人の論文を集成した単行本に収載されている論文は、上記(1)の 6論文として扱う。すなわち、2著書〈共著〉・15分担執筆のいずれとも見なさない

早稲田大学文化構想学部「研究業績書の記載方法」より
http://flas.waseda.jp/gslas/wp-content/uploads/sites/5/2013/02/gyoseki.pdf

あ〜、これは分かりやすいことこの上ない。

っていうか、奥付の著作権表示に名前がなければ書誌情報での検索もできないわけですから、共著でございますとは言えないってことですな。

あれ? 大丈夫かな、自分。

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